1️⃣ 2025年もまもなく暮れようとしています。とは言っても、感想を出すとすれば、この数日中に書いてきたことが全て、という感じです。
この1年、切実に感じさせられてきたのは「人権」や「市民的」な思想、あるいはリベラル的な思考回路を持つことそのものが「悪」であるかのように扱われてきたこと。関連記事がネット上に出たら、すぐ否定的な文章ばかりその場を占めてしまう。そのことにしんどい思いをさせられてきました。
結局、人権主義は実現されていない。
あるいは
勢力が弱い。
言っていることが絵空事だ
だから「俺たち庶民のためになっていない」
という理屈で、ことごとく否定されてきました。
2️⃣ 実態はといえば、左翼・人権主義的勢力のこれまでの行動の積み重ねで、人権意識が一定の力を獲得した場面もあります。例えば、生活保護の「いのちのとりで訴訟」などがその代表的な例。
いままでであれば、たとえその勢力が嫌いだと思っても、一定配慮を考えてみなければならない…と考えに至るところでしたが、「やったもの勝ち」とばかりに開き直ってくる。先に述べたいのちのとりで裁判では判決が出ても「知ったこっちゃない」と言わんばかりに改悪を実行するばかりか、運動勢力の分断を図る目的で、裁判に参加できた原告とそれ以外に差を設ける「分断工作」にまで来ている。これは本当に「殺し」に来ているのだと感じます。
3️⃣ 一連の動きは「権力者・政府の言うことにハイハイと言うことを聞けばいい」という社会にさせようとしている動きの表れ。さらに言えば、権力を批判することそのものを「悪」として扱う。
痛覚神経を抜いた社会は、果たしてまともに機能するのでしょうか。
「お前ら少数派が文句を言ったって無駄。多数派に添った形で物事を考えなければならない」という空気が、あらゆる場面で突き刺さります。正直、自分のやってきた社会活動30年の中で、一番精神を削られる年となり、気がつけば9月から12月半ばまでブログの記事を制作する気力が折れていました。
4️⃣ それでも、何もしていないというわけではなく、反差別・ヘイトに関わる行動に直接参加。一つ前の記事の通り「やり方が悪い」だの「それじゃ支持が得られない」などの言葉も受けましたが、「ヘイト・差別に怒っている姿を見せる」ことでマイナスを食い止める姿を見せるのも必要。やり方で言えばいろいろと模索していけばいいけど、「表だって行動をする人を止めないこと」は繰り返し申し述べておきます。
5️⃣ ここ5年間「リベラル」や「人権主義」的な考え方を社会に残すというのを社会活動の目的にしていました。この道が本格的に閉ざされてしまえば、存在そのものができなくなる私にとっては切実な問題。生き残るために迎合の道を選ぶ方もおられますが、それは「違う」のではないかな。
2026年、どこまで人生を付き合えるかわかりませんが、最期の時まで、自分の存在する支柱となった「人権意識」や「左翼思想」を守り続けます。
2025年も大変お世話になりました。
2026年もよろしくお付き合いお願いします。
2025年12月31日 伊東勉

