1.地下鉄サリン事件
1995年3月20日、オウム真理教の信者らが営団地下鉄(現在の東京メトロ)の地下鉄車両内に神経ガス・サリンを散布し、乗客および職員14名が死亡、さらに被害者の救助にあたった人々も含めて6300人あまりの被害者が出た。いわゆる地下鉄サリン事件である。
この事件をきっかけに、オウム真理教の教団本部に司直の捜査の手が及び、教祖・麻原彰晃=本名・松本智津夫を頂点する数々の凶悪犯罪が明らかとなった。
この時、国民を驚かせたのが、教団幹部を含む信者の中に理系の大学を卒業した優秀な若者が多数いたことであった。
高等教育を受けた彼らが、なぜ道を踏み誤ったのか?
当時、多くの国民がこの疑問を口にしたが、識者からの明確な解答はなかった。
そして、2025年3月、事件から30年の節目ということで、またテレビなどで特集が組まれるとともに、前述した疑問が再浮上している。
そこで、蜀犬があえて、回答したい。
なぜなら、彼らが典型的な日本的宗教観すなわち、信仰の論理を理解できない日本人だったからである。では、なぜ典型的な日本人の典型的な宗教観が凶悪犯罪につながったのかを、論考していきたい。
なお、以下、宗教についての論考を述べるが、決して特定の宗教を誹謗中傷する意図がないことを事前に言っておく。
2.あなたは神を信じますか?
さて、「あなたは神を信じますか?」というのは、新興宗教の定型句であるが、神を信じるとは、具体的に何をどうすることなのだろうか?
イスラム教では、神とは、第1番目に「神」からはじまり、第2番目「全ての慈悲深き者」、第3番目「最も慈悲深き者」、第4番目「究極なる真の王」、第5番目「創造者」、第6番目「全ての支配者」、……、98番「不滅の指導者」、99番「辛抱強き者」という99個の属性を持っており、神を信じるというのは、この99の属性全てを認める(信じる)ことである。
例えば、これらの属性のうち、62番目の「死をもたらす者」と81番目「復讐せし者」について、自分は納得できない、と思えば、それは神を信じていないことになる。
また、イスラム教では、一日4回のメッカの方向へのお祈り、喜捨(お布施)の計算法、まで細かく規定されおり、この規定を守らなければ、信者とは言えない。
イスラム教では神を信じるか信じないかは、マニュアル(あえて、こう書く)に記載されており、神を信じるか信じないが一義的なのである。
ところで、大半の日本人はイスラム教のことを、『アッラー』という神さまを崇拝する宗教だと思っているのではないだろうか。しかし、この認識はそもそもマチガイである。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はいずれも旧約聖書を聖典(教典)とする一神教であり、神はこの世で唯一の存在である、と考えている。ただし、その教義・解釈に違いがある、ということである。
終末の時に救世主(メシア)が現れてユダヤ教徒を救ってくれるのが、ユダヤ教であり、ユダヤ教ではイエスをメシアとは認めていない。
そして、イエスこそ救世主であり、終末の時にイエスが再臨し、予め神の計画に記載された人だけを救う、というのがキリスト教である。聖書には天地創造の時(つまり最初)から、救済される人間は決まっていると明記されている。
キリスト教の論理は、神に選ばれたか選ばれないかが唯一の理由であり、本人の行動は考慮されない。つまり、アル・カポネのような何十人も人を殺した男が救われることがあれば、マザー・テレサのような聖女が救済されないこともあり得るのである。
ただし、このような教えでは救いがなく、信者も集まらないので、カトリックでは、サクレメント(秘跡)という儀式で誰でも救済できるという風に変更した。
一方、真面目に働けば救済される、と言う風に教義を修正したのがプロテスタントである。
前2者に対して新参のイスラム教では、終末の時に、イスラム教徒を救ってくれるという風に救済の間口を広げた。ここでいうイスラム教徒とは何かと言えば、前述の信仰マニュアルを守った者たちである。
3.キリスト教における信仰とは
さて、イスラム教では信仰の証としてさまざまな行動規範が求められるが、キリスト教において神を信じる、とはどういうことになるだろうか?
答は、聖書の記述を事実として信じることである。処女が妊娠・出産した、磔にされた男が3日後に甦って天に昇っていったなど、聖書は我々の常識ではあり得ないことのオンパレードである。ある意味、最古のファンタジー小説とも言えなくもない。
聖書によれば、神は全てを創造した存在である。ここで言う全てとは宇宙を統括する全ての法則、を含んでいる。つまり、卵子が精子を受精して生命が誕生するという法則を神が作ったのであれば、その法則を一部変更して、卵子の単性生殖でも生命を誕生させることができる、という訳である。
また、現代科学では未解明であるが、仮に肉体が傷つくと生命エネルギーが洩れていきゼロになると死に至る、という法則で活動しているのであれば、法則を改変して生命エネルギーを再チャージすれば生き返ることも可能であろう。
このように創造主が宇宙の法則を創造したのであれば、宇宙の法則を改変することもできる、というのがキリスト教の考え方である。
なお、通常起こりえないことが起きた場合、我々は「きせき」と呼び、「奇跡」と言う字で記述するが、創造神が宇宙の法則を変更して起こした場合、「奇蹟」と記述する。
要するに、あり得ないことが起こる=奇蹟が実在する=神が実在する、ということであり、聖書の記述が全て事実であると信じることは、すなわち神の実在を信じている、という論理となるのである。
一方、仏教では、お釈迦様が火や水を自由自在に出したり、招雨経を唱えて雨を降らせるなどの超自然現象を起こしており、法力という超自然的パワーを認めている。では、法力と奇蹟はどうちがうのだろうか?
仏教では、キリスト教のような人格的な神の存在を認めていないが、宇宙を貫く不変の真理というものを肯定している。ただし、この真理は全ての人が完全に理解できるわけではない。仏教の究極の目的は、悟りを開くことであるが、その悟りにしても複数の段階があり、悟りを深めることによって真理を理解するレベルも高くなる。
「因果の理は必然」と開祖・お釈迦様が語ったように、仏教の基本は因果律である。我々凡人は葉っぱがかすかに動くのを見てそよ風の存在を感じるが、悟りを開き真理に目覚めた人であれば、目の前で吹いたそよ風の動きが、風が吹けば桶屋が儲かる式に作用した結果、3日後ロサンゼルスが嵐になる、と言う一連の流れを理解できる、ということである。
従って、真理を理解できない凡人には不可能なことも、悟りを開いた人には真理の理論を活用して奇跡に見える現象を起こせる、という訳である。流体力学を理解できない人間には、空気よりも重い金属でできた物体が空を飛ぶ、というのは想像を絶する現象であるが、流体力学を理解していれば、金属製の飛行機が飛ぶのは常識に過ぎない、ということである。
要するに、仏教における法力とは、この世界を動かす法則を利用することであり、キリスト教における奇蹟とは、この世界を動かす法則自体を変更することである。そして、この法則を変更可能なのは唯一の創造主である神(および神と同等の権能を持った者=救世主)だけである。
それゆえ、奇蹟を目撃した時、それが本当に神の奇蹟なのか、それとも単なるトリックなのがを見分けることが重要になってくる。なぜなら、聖書には終末の時に救世主(イエス)が再臨すると明記されており、奇蹟を起こす者が現れたということは、終末の時が来たことを意味するからである。
新約聖書によれば、12使徒のひとりであるトマスは、磔刑後に復活したイエスが目の前に現れた時、イエスの脇腹の傷跡に手を触れてみて、初めてイエスの復活を実感した。それゆえ彼は「疑心トマス」と呼ばれている。
仮に、日本で死んだ教祖が生きかえったとすれば、信者は狂喜乱舞こそすれ、本当に生き返ったのかどうか調べてみよう、などと発言する者はいないだろう。
奇蹟を起こせるのは神だけ、一方、神でもない人間が一見奇蹟に見える現象を起こしたすれば、それは神の名を騙るペテン師ということになる、それゆえ聖書ではそのような者を石で打ち殺せと明記している。
4.日本教徒キリスト派
ここからは故・小室直樹センセイの受け売りであるが、日本人のキリスト教徒と言うのは、実は日本教徒・キリスト派とでもいうべき存在だそうである。日本のキリスト教徒に、処女が懐妊したとか、死んだ男が甦って天に昇っていった、といった聖書の記述を本当に信じているか?と聞けば、大抵は、信者どころか、敬虔な神父でさえ、本当は信じていない、と言うのではないだろうか。
しかし、建前と本音を使い分ける日本人にとっては、別に困らない。聖書には一般人には判らない深い意味があるのだろう、という程度で済んでしまうのである。
日本神話では、天皇家の始祖ニニギノミコトは高天原から地上に降りたことになっている。戦前の話であるが、ある学校の生徒が、学校に駐在していた軍の配属将校に、「高天原はどこにあるか?」と聞いたところ、学歴の低さをバカにされたと思った件の将校は、その生徒に往復ビンタを浴びせたそうである。
高天原は雲の上にあるのか、それとももっと上の天上世界にあるのか?
別にそんなことはどうでも良い、何か深い意味があるのだろう。程度で済んでしまうのが、日本人的思考なのである。
日本神話の記述を完全に信じていないのに神社にお参りするというのは、聖書の記述をいっさい信じない人間が教会に行って祈りを捧げるようなものである。信仰というのは、その拠り所となる規範=教典があり、その教典に基づいて、信仰しているか否かが、明確に分別される、というのが聖典宗教(キリスト教、イスラム教、ユダヤ教)を信仰する人にとっての常識であり、その意味で、このような日本式信仰は、世界の常識からみれば、信仰がない、ということにされる。
逆にいえば、外国由来の宗教であっても、日本独自の解釈を行うことで、日本式信仰の幅を広げることができる。平安時代頃に起こった日本の神々は仏教の仏がこの世を救済するためにとった仮の姿である、という本地垂迹論はその代表であろう。東洋的多神教の本元である中国の道教はもっと露骨で、崇拝する神々の中にマホメッドやイエスがいるそうである。
この信仰心のあいまいさが日本人の精神的なおおらかさを作っているとも言えるが、これが悪い方向に作用するととんでもないことが起きる。
神道は多神教なので、何か願いがある時は、その分野に最適の神さまが祭られた神社に参拝し、既定の参拝手順によって祈りを捧げるという形式を取る。この際、その神さまがどのような由来で祭られたか、そのきっかけとなるエピソードがあるのだが、一般の人はそこまで深く理解しているわけではない。例えば、恋愛成就といわれているから、その神社にお参りする、というだけである。
ある意味、神様ブランド信仰とも言えるが、このブランド信仰を突き詰めると、効能さえあれば、細かな話は問われない。従って、信仰には論理があるという考え方が生まれないのである。
それどころか、何か良く判らないが、世界的なブランドの信仰だから、きっと効果があるだろう、取り敢えず拝んでおこう。という考えに至ってしまう。
新興宗教などは特にこれが顕著である。キリスト教や仏教などのブランド力を利用しようとする新興宗教の教祖はイエスの生まれ変わり、あるいは、最終解脱者などといったブランド用語を自称することになる。
宗教を論理的に理解できない日本人はコロッと騙されたようだが、真のキリスト教徒であれば、論理的矛盾に気付くはずである。なぜなら、聖書には、終末の日にイエスが光の輪に乗って天から降りてくる、と明記されているからである。もし、イエスの生まれ変わりを自称する教祖が、光の輪に乗って天から降りていないのなら、それは偽者ということになる。
もっとも、聖書には終末の時が近づくと、自分の名を騙る者が現れるだろうとイエス自身が語ったことが明記されており、その意味では、キリスト生まれ変わりを自称する教祖こそ聖書に登場する偽キリストということになる。
さて、オウム真理教の麻原彰晃は、最終解脱者を自称した。仏教における最終目標は解脱して輪廻転生の輪から離れることである。この解脱者のことを仏教では阿羅漢と呼ぶが、阿羅漢には、以下の6つの能力あるそうだ。
① 自由自在に自分の思う場所に
② 思う姿で行き来でき、
③ 思いどおりに外界のものを変えることのできる力。
④ 飛行や水面歩行、
⑤ 壁歩き、
⑥ すり抜け等をし得る力。
もし、麻原彰晃氏が最終解脱したのであれば、この6つの能力が使えなければおかしいことになる。オウム真理教の教団幹部の中にひとりでも12使徒の聖トマスのような人物がいれば、麻原彰晃氏に前記の6つの能力を実演してもらって、最終解脱者かどうかが直ちに判明したはずである。
仏教のブランド力にすがって、仏教用語を使いながら、その能力が使えなければ、ペテンはすぐにバレる。おそらく、高学歴信者の中に、仏教でいう最終解脱者とはいったい何なのか?ということを、誰ひとり論理的に考えていなかったということであろう。
5.日本人の宗教観
一般的な日本の教養人にも理解できないかもしれないが、最先端の量子力学を研究する物理学者が敬虔なクリスチャンというのは欧米では別にめずらしいことではない。
科学とは真理を追究しようとする精神であり、それは目の前で起きた奇蹟が本当の奇蹟なのかそれともニセモノなのかを見極めたいという欲求、それはその根源にある欲求(=終末の日がいつ来るのか、救世主が再臨したのか)に基づいているからである。
一方、多神教の日本人にとって神さまを拝むというのはごく日常の行為の延長である。従って、キリスト教のように信仰とは何かという明確な論理を持つ宗教とは違って、神が存在するか、神の奇蹟はあるか、という疑問を抱く前に、無条件に信じてしまうのである。
そう考えれば、新興宗教の教義に何の疑問も抱かず、入信する日本人は今後も減ることはなく、従って、第2のオウム真理教が現れないという保証はないのである。
宗教や信仰には明確な論理があり、信仰しているか否かが厳然と峻別される。この論理が理解できないのは日本式信仰の弱点と言えるかもしれない。