平安末期、平家を滅ぼす大功を建てながら兄に疎まれ、衣川で討ち死にしたと言われている源義経であるが、実は死んでおらず、その後、大陸に渡ってジンギスカン(チンギス・ハーン)になった、という説がある。
もちろん、正当な歴史としては認められていないが、このロマンあふれる説を人材論の観点から考察してみたい。
1.義経=ジンギスカン説
源義経が衣川で戦死せずに、大陸に渡ってジンギスカンになり、モンゴル帝国を打ち建てたという説の根拠として、以下のことが指摘されている。
・ 鎌倉幕府の正史「吾妻鑑」には、義経の最後について矛盾した記述がある。
(持仏堂で自殺/民部少輔の館で誅殺)
・ 義経の首が鎌倉に送られ首実検が行われたが、焼け焦げたうえに腐敗していた
ため、本人かどうかの確証が取れない。(影武者の首説)
・ 信楽寺跡(宮城県)の碑文に義経の影武者・杉目太郎行信が身代わりになった
と彫られている。
・ 源義経の死亡日は公式記録では、閏6月30日であるが、雲際寺(平泉)にある
源義経の位牌には死亡日が閏6月28日となっている。
・ 「亀井文書」の存在。これは義経の家臣・亀井六郎重清が油田村平泉)の農民
宛てに書いた糧米の借用書であるが、日付は衣川の戦いがあった文治5年閏 4
月30日以前の文治4年4月18日なっており、衣川の戦いの1年前に既にいなかっ
たことが考えられる。
・ 平泉に到達するまでの義経主従の逃亡ルートを調べると、天台宗系の寺社が関
係しており、天台宗系の修験道ネットワークを利用していたと考えられる。
・ 東北各地の義経主従が立ち寄ったという伝承が複数存在している。
・ 北海道アイヌの間にある「ホンカイ様」の伝承。
「ホンカイサマはアイヌの祖先たちに弓矢の作り方と使い方、さらに手工農作
のことまで教えた。やがてホンカイサマは蝦夷地から樺太へ攻め入り、アイ
ヌに害をなすその土地の酋長を殺し、そこから海を渡ってクルムセの国に入
った。その際に、一族の智者、勇者、若者を動員し、金銀財宝を持って出陣
してしまい、戻ってこなかった」
この伝承にあるホンカイサマとは、ホンカイ様=ホウガン様=判官様=九郎判
官義経であるという。
・ ウラジオストックから西北100キロにあるウスリースクにあった古碑には笹竜
胆の紋章が刻まれていた。シベリア出兵(1918~1922年)で当地に派遣された
日本軍兵士が目撃したとの話もある。
・ ジンギスカンの前半生がはっきりしないこと。
・ 源義経の生没年は、1159~1189(?)年、ジンギスカン(チンギス・ハーン)
の生没年は1162(?)~1227(?)年で、両者の生きていた時代が重なる。
などである。
実は、蜀犬が大学生の時、図書館にあった高木彬光先生の「成吉思汗の秘密」という推理小説(新書版)を読んでこの説を知り、そのロマンの壮大さ、さまざまな状況証拠から、正しいと信じてしまった。
また、当時の教養課程の英語テキストが、明治期に義経=ジンギスカン説を発表した小谷部全一郎の半生を描いた作品だったことも影響しているかもしれない。(若き日の小谷部が北海道でアイヌの人たちと交流していて、「ホンカイ様」の伝承を聞く話も記載されていた)
もちろん、この説は当然のことながら、荒唐無稽な妄説として正当な歴史学者から否定されている。しかし、それは、例えばジンギスカンの墓所から源義経と関係のある物証が発見されていない(墓所自体が未発見)、あるいは、源義経がジンギスカンであるという書物が見つかっていない、といったことである。
(これを記した文献は江戸時代に作られた偽書として扱われている)
もっとも、たったひとつの遺跡や遺物が発見されただけで、それまでの常識がコロリと変わるのが歴史の世界である。その意味では、従来の否定説は単に明確な証拠がないというだけに過ぎず、根拠のある否定論とは言い難いのではないだろうか。
2.「ジンギスカン=成吉思汗」暗号説
源義経=ジンギスカン説の傍証として、成吉思汗の暗号説とでも言うべきものがある。実は、高木先生の「成吉思汗の秘密」の初版では、天城山心中事件がラストとなっていたのである。
この事件は、1957年12月10日に学習院大学の男子学生(20歳)と同大学の女学生が天城山中で拳銃自殺した事件である。男子学生は東北出身、女学生はなんと、清王朝の血を引く愛新覚羅慧生(19歳)であった。
実は、義経北行伝説の中に、義経が平泉に落ち延びる途中で一夜を共にした女性が生んだ姫が、許される恋から東北の武士と心中したという伝説があった。
清王朝はもともと漢民族ではなく北方の騎馬民族が建てた王朝であり、元王朝の血を引くとも言えるわけで、ある意味、この心中伝説と重なっているともいえる。
高木先生は、子孫が先祖と同じ運命とたどるという「輪廻転生説」を元にして、過去と現代の心中事件を対比させ、彼らの先祖の運命が繰り返されたことで、真実なのではないか、という終わり方にしたのである。
ところが、その後に、夏木静子という一読者が高木先生の「成吉思汗の秘密」を読んで感銘を受け、いろいろ考察を巡らせるうちにある結論に至り、それを高木先生に伝えてきたのである。
高木先生は後に、夏木静子氏が主人公・神津恭介に自分の発見を語るという形でラストを大幅に変更した。(蜀犬が学生時代に読んだ新書版にもしっかり掲載されている)。
夏木氏によれば、歴代の元王朝の皇帝は、フビライ(忽必烈)などのように、『汗』の文字は通常使われいていなかった。
ところが、なぜか成吉思汗だけが『汗』を付けて表記されており、夏木氏は、これには何か理由がある、と考えたのである。
その傍証として出されていたのが、『黄絹幼婦外孫齏臼』という碑文である。
昔、魏の曹操が軍団を率いて、溺死した義父の遺体を捜索していて悲しみのあまり命を絶った嫁の行為を称賛する石碑の前を通った。その石碑には、その後、後漢の蔡邕《さいよう》の言葉が彫り付けられていたが、誰も意味が判らなかった。それが先に上げた、『黄絹幼婦外孫齏臼』である。
曹操は馬に乗って意味を解くまで30里かかったことから、「有知無知三十里」(=知恵のある者とない者との差がはなはだしいことの例え)の故事となったと言われている。
この『黄絹幼婦外孫齏臼(こうけんようふがいそんせいきゅう)』の意味であるが、
黄絹=黄色の絹=色の付いた糸=絶
幼婦=幼い婦人=少女=妙
外孫=自分の娘が生んだ子供=自分の娘(=女)の子供=女子=好
齏臼=辛子をすり潰す石臼=辛子を受ける=辤
というように、2文字の漢字が漢字の偏《へん》と旁《つくり》を現わすという暗号だったのである。
この暗号を解くと、黄絹幼婦外孫齏臼=絶妙好辤・・・「この碑文は味わいがある」、の意となる。つまり、後漢の蔡邕《さいよう》は、石碑の碑文に感動したことを、そのような暗号文で石碑の側面に刻んだということである。
また、夏木氏は、平安時代の歌物語である「伊勢物語」にある、かきつばたの歌の話を傍証として挙げている。
歌物語「伊勢物語」では、都落ちして東国にやって来た貴族がかきつばたの花を見ていると、周囲の人がかきつばたで旅の心が読めるか?と問いかけた。
すると、その貴族は、
唐衣 着つつ慣れにし 妻しあれば はるばる来ぬる(=着ぬる)旅をしぞ思う
唐衣(中国から輸入した貴族の古着)が何度も着ているうちになれるように、長年慣れ親しんできた妻が(都に残って)いるので、はるばるやって来た旅を(しみじみとわびしく)思うことだ、の意。
この短歌の最初の部分にもかきつはた=かきつばたの文字が入っている。
からころも
きつつなれにし
つましあれば
はるばるきぬる
たびをしぞおもう
以上の例から、夏木静子氏は、表意文字文化圏では文字自身に特別の意味を込める傾向があるとし、ジンギスカン=成吉思汗という名前にも特別の意味があるのではないかと、推理したのである。
まず、着目したのが『汗』である。元王朝では皇帝のような最高権力者を意味する言葉あるが、そもそも『汗(ハン)』の位はジンギスカンによって創られたのであるから、当然、ジンギスカンの意志が入っているはずと主張する。
すなわち、
汗=サンズイ+干=水+干=水干
となる。
水干とは平安時代の庶民の男子の装束であるが、一方で、白拍子と呼ばれる歌舞を演じる女性の衣装でもあった。ここで、源義経に関係のある白拍子と言えば、静御前の名前が浮かぶ。
そこで、成吉思汗を「吉成りて汗を思う」と読み下し、「吉野山での誓いが成って静御前を思う」、という意味に解釈する。吉野山とは、兄・頼朝に追われた義経が、静御前と別れた場所である。
平泉の館を落ち延びて大陸に渡った源義経が、騎馬民族のリーダーとなって大帝国を打ち立てた。義経は成吉思汗と名乗ることで、自分が大陸で生きてることを静御前に伝えたかったのではないか、というのである。
また、モンゴルでは、 8月15日 を 成吉思汗の命日 として、「オボー祭」という祭りを催し、その霊をなぐさめている。 義経ゆかりの鞍馬寺でも、 かつては8月15日 に「義経忌」という法要が行われていたと言う。これは、成吉思汗の名前の意味を解いた鞍馬寺の僧侶たちが、義経が生きて成吉思汗になったことを知って始めたのではないか、という傍証だという。
ロマンあふれる大胆な解釈である。
蜀犬も学生時代には、この壮大な解釈には一時期胸を躍らせたものであるが、その後、社会人となり、ビジネス戦略や人材論について学んでいくうち、この説に疑問を持つようになった。
源義経って、大帝国を築けるような英雄だったっけ?
ということである。
3.人材論から見た義経
「名選手、名監督にあらず」という言葉がある。名選手の条件は個人のスキルであるが、監督には多くの選手をコントロールするマネジメント能力が求められ、それは、個人のスキルとはまったく別の問題だということである。
実際、ビジネスの世界でも優れた才能で出世したまでは良いが、出世した先でマネジメント能力がなかったために、組織全体で優れた業績を残せなかったといった例は枚挙にいとまがない。
「卒に将たるは易く、将に将たるは難し」という言葉がある。
秦の始皇帝亡き後、漢帝国を打ち建てた初代皇帝・劉邦と大功のあった淮陰侯・韓信との酒宴で韓信が語ったとされる言葉である。
劉邦が、韓信に「自分はどのくらいの兵力を扱えるだろうか?」と尋ねると、韓信は「陛下なら10万でしょう」と答えた。
すると、劉邦は、「ならば、そちはどの程度か?」と尋ねると、韓信は、「私なら多ければ多い程使いこなせます」と答えた。
それを聞いた劉邦は、「儂より多数の兵を使いこなせるのに、なぜ儂に仕えておるのか?」と聞いた。
韓信は、「私は兵に将たることはできますが、陛下は将に将たることができます。」と答えた、という。
要するに、将軍が兵士を指揮するとこと、その将軍たちを統率指揮する将帥の能力は全く別ということである。
さらに、項羽との内戦が終わった後、劉邦が建国の功臣たちと酒宴を持った際、自分が項羽に勝てた理由について、「優れた賢臣の意見を良く聞いて、彼らを使いこなしたこと」を挙げている。
実際、劉邦はライバル項羽との内戦平定後、最大の功臣として、蕭何を挙げている。蕭何は最前線で項羽軍と戦ったことはないが、後方で、劉邦の代わって領地を治め、劉邦の要求に応じて、食糧や補充兵を送り続けた。もし、蕭何がいなければ、劉邦軍は兵站や兵力が枯渇して早期に項羽軍に敗れていたはずである。
一方、劉邦のライバルである項羽には、唯一の謀臣・范増がいたが、劉邦陣営の策略によって、項羽の元を去っていた。さらに、項羽は兵站や後方攪乱など目立たないが重要な任務を行う者に評価は低かったとも言われている。
多くの日本人が誤解しているようだが、戦争における勝利とは個々の戦闘における勝利の合算値ではない。それらは単に戦術的な勝利に過ぎない。
そして、戦争を論じる時に言われるのが、戦術上の勝利は戦略上の勝利で覆せる、ということである。
例えば、太平洋戦争前期、日本海軍はMO作戦を実施した。これは、ニューギニア南東部のポートモレスビーを攻略して、基地を建設し、珊瑚海の制海権を確保することで、アメリカとオーストラリアを結ぶ海上補給ルートを遮断するのが狙いであった。
そして、1942年5月7日から8日にかけて、アメリカ・オーストラリア連合軍の機動部隊と、日本の機動部隊との間で、世界初の空母戦が繰り広げられた。(珊瑚海海戦)
2日にわたる戦闘の結果、双方が損害を被って撤退し、海戦は終わった。
・ 日本側損害:軽空母・祥鳳が沈没、大型空母・翔鶴が大破、
・ アメリカ側損害:大型空母レキシントンが沈没、ヨークタウンが中破
単純に損害(=戦果)でいえば、日米痛み分けと言えなくもないが、ポートモレスビーを攻略して、合衆国とオーストラリアを分断するという作戦目的を達成できなかった。この結果、合衆国からオーストラリアへ戦略物資が供給され、その後、日本軍の重要戦略ポイントであったラバウル攻略作戦が実施されることとなった。その後の経緯を考えるならば、戦略的には日本の敗北といえる。
従来、連戦連勝の英雄と評価されてきた源義経であるが、将帥という観点、あるいは、戦略と戦術という観点から再評価することは必要であろう。
4.鎌倉革命政権
いわゆる源平時代というのは、実は平安時代末期であり、当時の経済システムで重要な位置を占めていたのが、『荘園』であった。これは貴族や寺社などの支配層に農地(田圃)の所有を認めるものである。
一方、東国など京都の権力の及びにくい土地では、地方の豪族が自分たちで荒れ地を開墾して農地を持つようになったのだが、もちろん、これは非合法である。
そこで、豪族たちは、中央の貴族や寺社に「寄進」と言う形で荘園の一画に加えてもらって合法化していたのである。
当然、その代償として、荘園の所有者である京都の貴族たちに、農作物を納めなければならない。
ところが、中央の権力が弱まってくると、地方の治安が悪化してくる。そこで、地方豪族たちは独自に武装するようになった。これがいわゆる武士の始まりである。つまり、東国の武士とは、武装した開拓農民だったのである。
当時の武士たちの心情を現わす言葉として、「一所懸命」がある。今では「一生懸命」に置き換わったが、もともと「一生」ではなく「一所」である。つまり、武士は自分の土地(を守るため)に命をかける、という意味である。
この初期の武士たちにとって、京都の貴族たちは次第に疎ましい存在となっていく。自分たちが額に汗して荒れ地を耕して作った農地の収穫物をひたすら奪うだけで、何もしてくれないからである。土地争い、水争い、盗賊団からの自衛といったことは全て自分たちで行わなければならない。その思いは、やがて、「自分たちにも土地(の所有権)をよこせ」という要求となっていく。
この東国武士たちの思いをくみ取ったのが、源頼朝であり、彼は「武士の、武士による、武士のための政治」を 目指していた。いわば、京都の中央政府に対する革命戦争を起こそうとしたのである。
当時の源頼朝は、源平の政争に敗れて追放された人質同然の身であったが、東国の田舎武士たちにとっては、中央との強いパイプを持った存在に見えた。ここから、源頼朝を神輿にして、京都政府に対して土地の所有を認めさせるという東国武士たちのビジョンが生まれてきたのである。そして、頼朝自身、東国の武士たちの中で暮らしていくうちに、彼らの心情をくみ取って、武家政権の構想を目指すようになったのである。
では、具体的にどのようにして、このビジョンを達成するか?
平清盛は自分の娘を天皇の妃にし、生まれた孫(男の子)を次の天皇(=安徳天皇)にした。その後、木曽義仲との闘争に敗れて平家は都落ちしたが、その際、安徳天皇と三種の神器を持って行ってしまったのである。
そこで、後白河上皇は尊成親王を後鳥羽天皇として強引に即位させた結果、同時期に2人の天皇が並立するという異常事態となってしまった。
後鳥羽天皇としては、安徳天皇から正式に譲位されたうえで三種の神器を譲り受けなければ、その正統性に疑問符が付いてしまう。
源頼朝が目を付けたのはまさにこの点であった。平家一門から安徳天皇と三種の神器を取り戻せば、後白河上皇との有力な交渉カードとなる。
そこで頼朝は、義経に安徳天皇と三種の神器奪還を命じたのである。もちろん、平家側が素直に渡すわけはなく、当然、実力行使を伴うことになる。
カール・フォン・クラウゼヴィッツは、「戦争とは政治の延長であって、政策を達成する手段である」と述べたが、平家との戦闘に勝利することによって、安徳天皇と三種の神器を奪還することが、源氏の戦略目標となったのである。
なお、頼朝自身、この戦略目標さえ達成できれば、平家一門の打倒(滅亡)は不要と考えていたようである。
5.「安徳天皇と三種の神器」奪還作戦
鎌倉革命政権のリーダー・源頼朝から「安徳天皇と三種の神器」奪還作戦の総司令官に任命された源義経は、戦略目標達成に対してどのように動いたのであろうか。
5‐1.一の谷の戦い
源氏兵力:数万騎
平家兵力:5~7万
① 1184年2月5日:まず、義経は前哨戦として三草山で平家軍を夜襲。不意をつかれ
た平家軍は大混乱に陥る。
② 2月6日:後白河法皇の使者が平家の元にやってきて、「源氏と和平交渉をしたい」
と持ちかけたため、平家は戦の準備を止めた。
③ 2月7日早朝:義経は少数精鋭の部隊を率いて、鵯越という急な崖の上に到着。そ
して、そこから平家軍の背後へと奇襲攻撃した。
④ 同じ頃、源範頼軍が正面から攻撃:範頼の軍が「生田の森」方面から攻め、正面
から平家軍を圧迫。
⑤ 平家の敗走:奇襲を受けた平家軍は大混乱に陥り、海からの脱出を試みた。し
かし、兵が殺到しすぎて船に乗れない者が多く、大勢の兵が海で溺れた、と言わ
れている。

【蜀犬考察】
孫子の兵法によれば、『戦いは正(せい)をもって合し奇(き)をもって勝つ』(勢篇第5)という。大部隊による正攻法によって敵を受け止め、まずは負けない体制を作った上で、奇策を行うことで勝ちを得る、ということである。その意味では、一之谷の戦いにおいて、源範頼軍の大軍で平家軍を圧倒し、源義経部隊による奇襲で平家軍を壊乱に追い込んだのは、ある意味、この理想的な例と言えるかもしれない。
しかし、戦いの戦略目標である『安徳天皇の確保と三種の神器奪還』は達成できたのであろうか?
もちろん、戦略目標はあくまでも最終目標であり、その過程で敵戦力を削減する、と言う意味では無意味ではなかった、と言えるかもしれない。
とはいえ、最終的に平家軍は船で海上へ脱出している。もし、義経部隊が山側から鵯越の逆落としで攻撃するのではなく、海岸または海上から奇襲すれば、平家軍を完全包囲することができたのではないだろうか。何と言っても崖を下ることはできても、登って逃げることは容易ではない。
その時、源氏軍に船がなかった、というのは言い訳に過ぎない。戦略目標達成のためには、事前に海上兵力を用意する、あるいは奇襲部隊が平家軍の軍船を奪取破壊する等の方策を考えるのが司令官の役目だからである。
5‐2.屋島の戦い
一ノ谷の戦いの戦術的勝利により、源義経は、後白河上皇から左衛門少尉や検非違使の職を授けられ、さらに、四国の地頭に任命した。
(源義経は、鎌倉革命政権のリーダー・源頼朝から司令官に任じられた身分にも関わらずである。)
また、ここで源氏軍は二手に分けられ、範頼軍は九州へ、義経軍は引き続き「安徳天皇と三種の神器奪還作戦」を継続することとなった。
1185年2月、摂津国の渡辺党、熊野別当の湛増、伊予国の河野通信の水軍を味方につけた義経は、摂津国渡辺津に兵を集めた。
① 総司令官・義経と軍監・梶原景時との間で「逆櫓の争い」が起きる。
梶原景時:船の機動性を増すため、後退できるように全部に櫓を付けるべき。
良将は進退を見極め、身の安全を考えながら敵を滅ぼす者。
前後もわきまえずに突進するのは猪武者
源義経:はじめから逃げることを考えていては良い結果は得られない。
義経の船には逆櫓は不要
戦さはただ攻めに攻めて、勝てば良い
② 2月18日、義経は暴風の中を五艘の船(150騎)で摂津国を出航、通常では3日か
かるところを翌朝には阿波国に上陸。
③ 2月19日、地元の豪族から平家の守りが手薄であるとの情報を得て、義経は少数
の兵で攻撃を決断。民家に火を放つことで平家に大軍が来たと錯覚させ、奇襲を
成功させた。平家はこの奇襲に驚き、陣地を捨てて逃げ出した。
④ その後、平家軍は再上陸を試みるが、義経が80騎を率いて撃退した。
⑤ 2月22日、梶原景時が率いる本隊144余艘が到着、平家軍は山口県にある彦島に
撤退した。この時点で、源範頼軍団は九州を制覇しており、平家軍は彦島(下関
市付近)に孤立状態となった。なお、『平家物語』によれば、義経は梶原景時を
「六日の菖蒲」と嘲笑したとされている。
【蜀犬考察】
源義経の決断で勝利を得たと言われる屋島の戦いであるが、最優先の戦略目標「安徳天皇と三種の神器の奪還」は、相変わらず果たせていない。その意味で、戦略上の勝利とは言い難いだろう。
しかも、最終的に平家軍船団の海上離脱を許しており、一之谷の合戦で行った失敗をまたしても繰り返したことになる。
梶原景時との逆櫓の論争で見せた総司令官である義経の決断は、そもそも作戦目的自体を理解していないことを明確である。安徳天皇と三種の神器を載せて船で逃げられた場合、さまざまなケースが考えられ、ある程度の機動性の確保は重要ではないだろうか?
また、上陸後、少数の兵で上陸に成功したのなら、源氏軍本隊の到着を待ち、本隊が平家軍の船団を海上から封鎖した隙に小部隊で安徳天皇と三種の神器を奪還する、といった作戦も取れたはずである。
最終的に総司令官義経は奪還作戦に失敗しており、少なくとも軍団の有機的な運用を欠いたという意味で、総司令官の責任は免れないことになる。

5‐3.壇ノ浦の戦い
屋島の戦いで敗北したのち、平家は根拠地を彦島(下関市近く)に移すことで、攻める源氏水軍VS守る平家水軍の争いが勃発することになる。
① 総司令官・源義経と軍監・梶原景時との間で「先陣の争い」が起きる。
梶原景時:自らが先陣を勤めることを提案。
「大将が先陣なぞ聞いた事がない。将の器ではない。」
と義経を批判
源義経:総司令官自らが先陣に立つことを希望。
景時の言葉に激怒。
② 1185年3月24日:壇ノ浦の海上で源氏と平家が激突。(源氏:830艘vs平家:500艘)
③ 同日午前:水軍に慣れている平家の軍が力を見せて源氏を圧倒。壇ノ浦近くの潮
の流れに乗って源氏水軍を徐々に押し返していく。
この時、義経は、平家の船の動きを止めるため、「船の漕ぎ手を射殺す」という
作戦を取った言われてる。(当時は非戦闘員を殺すことは卑怯なこととされていた)
④ 同日正午頃:次第に平家に有利だった潮の流れの向きが変わり、最終的には潮の
流れが逆転。源氏が有利な方向に変わる。 源氏が一気に反撃開始。
⑤ 同日午後:平家の兵たちは次々と海に飛び込み始め、安徳天皇も母である建礼門
院と祖母の二位尼とともに、海に身を投げた。三種の神器も平家一門の女官とと
もに海に沈んだ。この時、義経は、敵の猛将・平教経に追い詰められたとき、次
々と船を飛び移りながら逃げたと伝えられている。(義経の八艘飛び)
⑥ 源義経は平家の総大将である平宗盛を偶然捕縛し、捕虜にした。
一方、入水した建礼門院は助け上げられ、三種の神器のうち、『八咫鏡』と『八
尺瓊勾玉』は回収されたものの、『天叢雲剣』は行方不明となった。
【蜀犬考察】
船の漕ぎ手や舵取りを矢で射殺すことは、当時の倫理上問題だったかもしれないが、船を行動不能にして、「安徳天皇と三種の神器」奪還作戦においては、有効な戦術と言えるだろう。ただし、最後を悟った平家側は、自らの手で安徳天皇と三種の神器を自裁してしまったたことで、最悪の結果となった。
入水した建礼門院が助けられたのなら、やり方次第で安徳天皇も救えたのではないだろうか?
それができなかったのは、総司令官たる義経が最前線に出たことで、十分な指揮統率ができなかったと言える。いわゆる八艘飛びのエピソードは、義経が総司令官の職務を放棄して自ら最前線に出たことを物語っており、本来なら指揮の失敗として語られるべきものである。
最終的に総司令官のこの失態により、有力な交渉材料を得て土地の所有権を京都政府に認めさせるという鎌倉革命政権の構想は大きく揺らいでしまったことになる。
6.義経その後
日本一の大天狗と呼ばれた後白河上皇に操られたことで義経の運命は暗転していく。後白河上皇が過去にどのような事をしていたかを見れば、また、兄・頼朝が造ろうとしていた鎌倉革命政権を理解していれば、義経の行動はおのずと決まることになるのだが……。
義経は捕虜にした平家のリーダー・平宗盛を連れて鎌倉に凱旋しようとしたが、相模国腰越で止められた。
元暦 2年 5月24日 (1185年 6月23日)、義経は滞在していた腰越の満福寺で、兄への取り成しを依頼する手紙(いわゆる、腰越状)を書き、頼朝の側近・大江広元宛に送った。しかし、返事はなかったため、義経一行は止むを得ず京都に戻ることになる。
それに先立つ1185年(元暦2年)4月15日、頼朝は許可なく朝廷の官職についた者に対し、墨俣川以東へ入ることを禁じ、これを破った者は本領を没収し斬罪に処するという命令書を発出していた。
なお、この日付は義経が京都政府から官職を得た後であるが、鎌倉革命政権のリーダーである源頼朝からすれば、義経は単なる配下の一将に過ぎず、リーダーの頭を素通りして官職を得るなどあってはならないことであった。この道理を知っていれば、義経は自主的に官位返上をするのが筋である。
ところが、義経が出した腰越状では、「任官は一族にとって名誉なこと」と書いており、この組織論をまったく理解していなかったと思われる。
現在でも政権与党が、大臣就任をエサにして、対立する派閥や野党から直接ヘッドハンティングする「一本釣り」が行われている。その時にヘッドハンティングされた本人は良いが、その後は元の所属組織との関係がこじれることも多い。
鎌倉革命政権は、義経の所領を没収するなどの措置を行ったため、義経は、源氏のトップである兄・頼朝との対立が決定的となった。
最終的に、後白河上皇から頼朝討伐の院宣を出してもらい、武士たちに頼朝討伐を呼びかけたが、参集する武士はひとりもいなかった。
これはある意味当然である。「安徳天皇&三種の神器」奪還作戦で、総司令官たる義経は自ら最前線に出て戦うことが多かったが、これは裏を返せば、恩賞を得ようとして参加した武士たちのチャンスを横取りする行為だからである。
また、「武士に土地をよこせ」をスローガンにしている鎌倉革命政権と、既得権益を守ろうとする京都政府と、どちらが武士たちの心情に響くか、といえば、言わずもがな、だからである。
その後、頼朝は義経追討を名目に京都に大軍を送り込み、後白河上皇に「頼朝追討」の院宣を取り下げさせ、新たに「義経追放」の院宣を出させた。
この結果、義経は日本国内を逃亡するしかなくなり、最終的に逃亡先の平泉で討ち取られたのである。
7.源義経はジンギスカンになれるか?
以上の考察から、源義経を評価するならば、
・ 優れた戦術眼を持っており、大軍の弱点を突いて勝利を得る短期決戦型の猛将。
・ 戦略の意義を全く理解しておらず、万単位の大軍を指揮する能力はない。
・ 「土地を寄越せ」という当時の武士たちの要望を全く理解しておらず、リーダーの
資質に欠ける。
・ 後白河上皇は過去にも権謀術数を駆使して武士を潰した前歴があり、安易な接近
は危険という政治感覚も欠如している
といったことが挙げられる。
韓信流に言うならば、源義経は「兵に将たる」人物であっても、「将に将」たる人物ではない、と言わざるを得ない。
「士、3日会わざれば刮目〈かつもく〉してこれを見よ(=努力する人間は、3日後に会った時にはびっくりするほど優れた人間に変わっている)という言葉があるので、義経も過去の失敗を反省して、政戦略に通じた優将になる可能性もなくはない。
しかし、歴史を俯瞰してみれば、そのような人物の例が稀有な事が多いのではないだろうか。
義経が自らの失敗を反省して、短期間で戦略思考や政治センスを身に付けた、というのは小説としては面白いが、現実問題は無理だろう。
仮に、義経が衣川の戦いで討ち死にせず、大陸に渡ったとして、「数百人の部下を率いる馬賊団となって大陸で大暴れした」という可能性はあっても、「有能な人材を登用し、彼らの力を存分に発揮させて大帝国を打ち建てる」、などということはまずあり得ないと言って良い。
以上のことから、義経=ジンギスカン説は明確に否定すべきであろう。
◆ 参考資料
引用地図:WTFM風林火山教科文組織
引用地図:屋島の戦い 出典:Wikipedia





































