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初代神武天皇から飛鳥時代最後の文武天皇まで、42人の天皇の約9割が別人の墓に葬られている可能性が高く、本来の墓(真陵)が特定されている天皇は、わずか5名・4基に過ぎない。 なぜ、このようなことが起きてしまったのか。そして、なぜ陵墓を管理する宮内庁は、その問題に正面から向き合おうとしないのか。本稿では、この謎を2回に分けて考察していく。 ※【前半】の記事↓
日本古代史における最大の謎の一つが、邪馬台国がどこに存在していたのかという問題です。しかし、この所在地をめぐる論争は江戸時代から続いていますが、いまだ確定には至っていません。しかし近年、奈良県… 約400年間にわたり続いた古墳時代 本論に入る前に日本史上における古墳時代とは、いつ頃を指すのかその定義についてお話ししたい。古墳時代とは、大王家(天皇家)や有力豪族をはじめとする人々が大小様々な墳墓を造営した時代の総称で、おおよそ3世紀後半(西暦250~300年)から7世紀末(西暦700年)までを指す。したがって奈良時代に入ると、古墳という名は使われず墳墓となるわけだ。 この約400年間に、北海道・東北北部・南西諸島を除く日本列島各地に、前方後円墳・円墳・方墳・八角形墳など、さまざまな形の古墳が数多く造営され、その数は16万基を超えるとされている。 このような古墳の中で、ヤマト国家の大王、すなわ
大阪を代表する繁華街といえば、「キタ」と「ミナミ」。梅田を中心とするキタに対し、ミナミは心斎橋を中心に広がり、その中核をなすのが道頓堀と千日前だ。 日本一古い歴史を持つとされる心斎橋筋商店街を南へ進むと、道頓堀川に架かる戎橋がある。そしてその向こう側には、おなじみの巨大な「道頓堀グリコサイン」が、訪れる人々を出迎えている。 コロナ禍が一段落した今、この界隈は再び国内外の観光客で昼夜問わず賑わいを取り戻している。いや、むしろコロナ前以上にインバウンド客でごった返していると言っていいだろう。 そんな華やかな道頓堀には、大阪松竹座が象徴する「芸能の街」としての顔がある一方で、かつて処刑場や火葬場、墓地があった「鎮魂の地」という、もう一つの素顔も秘めている。 今回は2回に分けて、賑わいの裏に潜む「道頓堀・千日前の知られざる歴史」を紐解いてみたい。[前編]では、道頓堀川とそこに架かる戎橋(えびすばし
8月24日(日)に放送されるTVアニメ「サザエさん」の内容が、『祝!万博開催スペシャル』と題して放送されることが明らかになりました。 放送内容は「サザエ万博へ行く」「サザエ再び万博へ行く」の2本。 「サザエ万博へ行く」は、1970(昭和45)年6月14日に放送された内容の再放送となり、放送当時に開催されていた「大阪万博」に、サザエさんらが訪れるというもの。太陽の塔の前で一家、張り切って写真を撮ったり、外国人観光客が多く、英語のコミュニケーションに四苦八苦するなどのストーリーに。 そして「サザエ再び万博へ行く」の舞台は、現在開催中の「大阪・関西万博」。大屋根リングの大きさに圧倒され、さっそくリングの上に上り、パビリオンや六甲山の景色を堪能。カツオの希望で、まずは日本館を訪れ、火星の石の展示を見るなど……。 サザエさん【祝!万博開催スペシャル】は、2025年8月24日(日) 18:30~19:
「藩札(はんさつ)」の目的は財政再建江戸時代の日本には完全に統一された貨幣制度が存在しておらず、地域ごとの経済が独自の形で発展していました。その中で、藩札は地域通貨として藩の経済を支える一… また、いわゆる「江戸の金遣い、上方の銀遣い」による金貨・銀貨の不統一、四進法と十進法の併用による計算の複雑さ、金貨・銀貨の形状の不揃い、偽造金貨の流通などが問題視され、諸外国からも強い抗議を受けていました。 さらに、明治政府が財源不足を補うため発行した太政官札や民部省札などの不換紙幣は価値が下落し、経済の混乱を招きました。 これらの課題解決の中心となったのが大隈重信です。 彼は1869年(明治2年)に貨幣単位を「両」から改め、十進法を採用し、貨幣を円形に統一する改革を提案しました。 大隈重信の「新貨条例」 大隈重信の主導で、1871年(明治4年)に布告されたのが新貨条例です。 新貨条例では、まず貨幣の
箸墓古墳の特徴 古代の大きな墳丘を持つ墓を古墳といい、古墳が築かれた時代を古墳時代と呼びます。古墳は全国各地で築かれましたが、なかでも奈良県桜井市には多くの古墳が集まっています。 その桜井市の数ある古墳の代表ともいうべき古墳が、箸墓古墳(はしはかこふん)です。 この箸墓古墳は日本最古の大型前方後円墳で、全長約280メートル。古墳時代前期の出現期の古墳のなかでは最大規模を誇ります。 本稿では、この箸墓古墳に眠る人物の正体について前編・後編に分けて説明しましょう。実はこの古墳は、かの卑弥呼のものであるという説があり、論争が続いているのです。 被葬者の候補 皇室に関わる古墳を管理している宮内庁によると、古墳の石室に眠るのは第7代天皇の孝霊天皇の皇女「倭迹迹日百襲姫」だということです(ちなみに倭迹迹日百襲姫は「やまとととひももそひめのみこと」「やまとととびももそひめのみこと」と読みます)。 しかし
幕末の英雄 歴史の研究成果は、今まで謎とされていたことを解き明かし、私たちにスッキリ感を与えてくれます。 しかしその反面、これまで信じていたことや憧れていたことなどが嘘だったと分かり、失望させられることも少なくありません。
『氷川清話』の矛盾 勝海舟(かつかいしゅう)は、幕末に最も活躍した「伝説の幕臣」の一人です。 黒船が来航すると、彼は海岸の防備強化を説く意見書をいち早く提出。先見の明が評価され、外国や尊攘勢力との交渉で活躍しました。 また討幕派が勢いづき、新政府軍によって江戸が攻撃されようとしたときも、勝は得意の交渉術で新政府側と互角にわたり合っています。 その結果、西郷隆盛との直接会談を実現し、江戸城の無血開城に成功。江戸が火の海となることを回避した――。こうした功績から、勝は高く評価されてきました。 こうした政治的な実績はよく知らなくても、「坂本龍馬の師匠」や「チャキチャキの江戸っ子」などのイメージで、彼のことを捉えている人は多いでしょう。 しかし現在、勝の評価は大きく見直されています。 上述の通説は勝の証言をまとめた『氷川清話』に多くを依拠していますが、他の史料や証言と照らし合わせると、この証言録に
黒船来航、開国、大政奉還、明治維新…約15年間の中で目まぐるしく情勢が変わっていった幕末。その時代の過渡期の中で、アメリカ医師の執刀によって両足を切断し日本で始めて義足をつけた歌舞伎役者がいました。 幕末から明治初期にかけて、歌舞伎界を牽引した三代目澤村田之助は、天才子役としてすでにその実力を認められ、安政5年(1858)に三代目澤村田之助を襲名。美貌と実力を兼ね備えた役者として、主に河竹黙阿弥の作品に数多く出演し、人気を博していました。 しかし、文久2年(1862)の「紅皿地皿」の舞台中に、宙吊りの状態から落下したことが原因で、脱疽(だっそ/細胞が死滅する病気)を患ってしまいます。 澤村田之助の細胞の一部はすでに機能しなくなっており、このままでは足を切断しなければならない状態でしたが、この人気役者の窮地を救ったのは、当時、横浜で医療活動を行っていた「ジェームス・カーティス・ヘボン」でした
「三大改革」だけじゃない 十代の頃に学校で学んだ日本史の内容として、「江戸時代の三大改革」を記憶している人も多いでしょう。 この三大改革と呼ばれた事柄は、かつては中学校の教科書には必ず載っていたものです。また高校入試などでも同様の表現で入試でも必ず出題されていました。改めてその三つを振り返ってみると、 将軍・徳川吉宗の享保の改革 老中・松平定信の寛政の改革 老中・水野忠邦の天保の改革 の三つとなります。
『魏志倭人伝』に登場する邪馬台国については長らく議論が交わされ続けており、学界はもちろんアマチュア考古学者や古代史ファンに至るまで、多くの人々の好奇心をとらえ続けています。
教科書にないッ! 日本史を学んでいるとよく登場する概念に「士農工商」があります。これについては「身分制度」あるいはインドのカースト(ヴァルナ)制度のような「身分序列」として長らく理解されてきました。 今回は、この士農工商の概念に関する誤解と、そもそもの意味などについて前編・後編に分けて見ていきましょう。 「士農工商」という身分制度・身分序列が現実に存在したと一般によく考えられていたのが、江戸時代です。 江戸時代の人々の身分は固定的で、農民が武士になったり、商人が農民となったりするような身分間の移動は許されなかったと長らく考えられてきました。それを表した言葉が「士農工商」だったわけです。 2006(平成18)年時点でも、某有名出版社の教科書では「こうした身分制度を士農工商と呼ぶこともある」と書き、「士農工商=身分制度」という意味合いを含ませた説明が見られます。 しかし、1990年代末には小学
あの偉人の名前が消える!? 歴史の研究も日進月歩で、これまでの通説やその扱われ方が大きく変わることも珍しくなくなりましたね。例えば、鎌倉幕府の成立は1192年ではないとか、「鎖国」という言葉が使われなくなるかもしれない、など……。 そんな状況の中、日本史界隈でまた衝撃的な出来事がありました。高校で使われる歴史教科書から、私たちが知っているある幕末の偉人の名前が削除されてしまうかも知れないというのです。 その偉人とは、他ならぬ坂本龍馬です。 特にエンタメ界隈では、幕末のヒーローと言えば坂本龍馬であり、幕末の歴史は彼を中心として描かれることも少なくありませんでした。私たち日本人の頭の中には「幕末イコール坂本龍馬」という図式がインプットされていると言っても過言ではないでしょう。 その龍馬の名前が、教科書に載らなくなるかも知れないのです。一体なぜ、そんなことになってしまったのでしょうか? 2ページ
しかしこの形は本物の福島県の形ではなく、実は北西からにょろにょろと触手のように、面積が伸びているのです。 下の地図を見てください。白い部分が福島県なのです。 なぜこんなことになっているのでしょう? ずばり結論からいうと、山頂にある飯豊山神社への「参道」がその正体。この参道はほぼ登山道となっています。 日本は山岳地帯なので山の稜線が県境になっていることが多く、この登山道も福島県の北西から「飯豊山」付近までの県境に沿って細く伸びています。 山形県と新潟県に挟まれたこの県境は幅90センチ、最も細いところで幅約50cmといわれ、約7km続いています。尾根をつたう細い登山道だけが福島県となっており、道の右側は山形県、左側は新潟県です。 この登山道と山頂付近の住所は、福島県喜多方市。
まず、こちらの絵画をご覧ください。 狩野昌運筆『異代同戯図巻』(福岡市美術館蔵)部分 火縄銃をかまえる観音菩薩。まるで現代アーティストが昔の絵巻をモチーフに描いたようなユニークな作風ですが、じつはこの作品は江戸時代前期に描かれたものなのです。 今回紹介するのは、狩野派の絵師によって描かれた絵巻を読み解く『「戯画図巻」の世界 競う神仏、遊ぶ賢人』という書籍です。 「スナイパー観音」としてSNSで話題になった、火縄銃をかまえる観音菩薩が描かれているのは、狩野派の絵師たちの手で描かれた、江戸時代前期の絵巻「戯画図巻」のひとつ、狩野昌運筆『異代同戯図巻』(福岡市美術館蔵)です。 『異代同戯図巻』(福岡市美術館蔵)の場面の例 火縄銃をかまえる観音菩薩と、火縄の準備をする龍女。 この他にも殺生を禁じた釈迦は水辺で漁にいそしみ、怪力無双の弁慶は小さな一寸法師に追い回され、威厳ある雷神は足をカニに挟まれて
明治時代から昭和時代にかけて活躍した日本画家「神坂雪佳(かみさかせっか)」。江戸時代に芸術分野における一大流派であった光琳派(琳派)の画風を学び、花鳥画をはじめとする多くの作品を残しました。 雪佳はさまざまな図案集も手掛けており、それらの作品は以前Japaaanでも紹介してきましたが、
ところが最近の研究では、実は幕府側はこの江戸城の明け渡しについて、あまり重く考えていなかったことが分かっています。 詳しく言えば、当時の幕府側は、江戸城を明け渡すのはあくまでも一時的なものだと考えていたのです。城はいずれ返ってくるだろうし、徳川慶喜の地位も保証されるに違いないと思っていたのです。 これは、明け渡された江戸城が、幕府寄りだった尾張藩預かりになったのも大きな理由でした。いずれ城は返還されるだろうという噂も、幕府内では流布していたといいます。 この思惑があったため、かの勝海舟は、一度は江戸城の返還を大総督府に意見したほどでした。 2ページ目 明け渡し後も続いた混乱
紀元前1万4千年から続く日本の歴史において、一切の記録が残されていない「空白の150年」があったことはご存知でしょうか。 それは4~5世紀のことで、日本をヤマト政権が統一していた時期です。 一体、何があったのか詳しく見ていきましょう。 中国の歴史書が唯一の手がかり!古代日本の謎 日本国内で古代日本に関する情報はほとんど見つかっていません。 しかし、中国の歴史書「魏志倭人伝」には、わずかな記録が残されていました。 それは、日本が周辺国から「倭」とよばれていた239年(3世紀)に、30以上の集落を束ねていた邪馬台国の女王・卑弥呼からの使者が訪ねてきたということ。さらに、266年に卑弥呼の後を継いだ女王・台与の使者がやってきたことも記録されています。 しかし以降は、日本に関する記述が途絶え、一切が不明。 次に日本が歴史上に登場したのは約150年後のことでした。 古代日本を紐解く 中国史での記録が
「倒幕はしない」同盟だった? 幕末の歴史物語の名シーンとして語り継がれているのが、薩長同盟が結ばれたシーンです。 薩長同盟とは、それまで犬猿の仲だった長州藩と薩摩藩が、いがみ合っていた過去を水に流そう、そして同盟を結ぼうということで1866年に成立したものです。 特に、この薩長同盟締結の場面は、坂本龍馬の物語の中で描かれることが多いです。坂本は両藩の仲介を果たした人物で、彼のおかげで薩長は結束することができ、「新しい日本」を作るための起爆剤となった――というストーリーで認識されているからです。 ただ、この薩長同盟の目的については、最近は通説と異なった見方も出ています。 薩長同盟は京の薩摩藩邸で行われていますが、この時に交わされた同名の条文には倒幕に関する記述は存在していないのです。 その後の歴史を見ると、実際には薩長連合が武力によって倒幕を果たしています。また、歴史物語の中でも、薩長同盟は
美青年の逸話 歴史上屈指の美青年とされる人物で、名古屋山三郎というのがいます。 彼は安土桃山時代の武将で、蒲生氏と森氏に仕えていました。また母親は織田信長の縁者である養雲院だったといわれています。 彼はとにかく若い頃から美少年として有名で、成長してからも著名な伊達者として名を馳せており、流行歌にまで歌われるほどでした。 彼について残る逸話はいくつかありますが、妻はかの出雲阿国だという話まで存在しています。これは内容的にちょっと眉唾ですが、とにかくそうした伝説が残るほどの有名人だったということでしょう。 また、もうひとつの逸話として、彼は豊臣秀吉の側室である淀君と密通しており、実は豊臣秀頼の実父だったのではないかというのもあります。 ただ、歴史学者の磯田道史によると、実際には山三郎と恋に落ちたのは淀君ではなく、秀吉の側室である京極竜子(西丸殿・松丸殿などと呼ばれることも)だそうです。 京極竜
幕末、多くの志士たちが日本の未来を斬り拓こうと刀を奮ったことは広く知られるところですが、中には男性だけでなく、女性が活躍した記録も一部に残されています。 今回はそんな一人・中沢琴(なかざわ こと)のエピソードを紹介したいと思います。 剣術家・中沢孫右衛門の娘として誕生 中沢琴の生年ははっきりしないそうですが、亡くなった昭和二1927年に「米寿(88歳)前後」だったと言うので、逆算すると1839年前後、天保年間(西暦1831~1845年)ごろと推測されます(ここでは便宜上、天保十1839年生まれとします)。 琴は上野国利根郡利根村穴原(現:群馬県沼田市利根町穴原)にある法神流剣術の道場主・中沢孫右衛門(まごゑもん)の娘として生まれました。 幼少より男勝りのお転婆で、兄・良之助貞祇(りょうのすけ さだまさ)と共に剣術や長刀、鎖鎌など武術の修行に励み、成長するにつれて長刀では父や兄を凌駕する腕前
日本由来の神は一人だけ 12月もあっという間に進み、すっかり年の瀬ですね。元旦からの初詣の企画もされている方も多いでしょう。このときだけ七福神巡りをする方もいるのでは? 一年に一回、ご利益に預かりたいものです。 ちなみに七福神のお名前をすべて言えますか? 「布袋、毘沙門天、福禄寿、寿老人、大黒天、弁財天、恵比寿」 ですね。 この七福神、神社によく祀られていますが、お寺にも祀られているような…一体仏教由来なのか神道の神なのか、疑問に思ったことはありませんか? それもそのはず、実は、この中で日本由来の神様はなんと一人だけなんです! それは恵比寿! 恵比寿様だけが神道由来の神様なんです。 様々な歴史の由来を持つ神が、日本に伝わる際に他の神と習合したり役割が変化して、七福神として崇められるようになったのですね。 では、他の神は元々はどのような宗教の由来なのでしょうか? 一人ずつ紐解いていきましょう
「生水(なまみず)に気をつけるんだよ」 ふた昔し、み昔しくらい前は、よくそんな事を耳にしました。 ピンと来ない方向けに説明すると、生水とは川や井戸などからくんだままの(沸騰させない)水のこと。キレイに見えても細菌や寄生虫など、時には生命を脅かす危険があります。 だから飲む前に必ず沸騰させるのが鉄則。しかし見ただけでは分からないため、うっかり飲んで大変な事態を招くことも多かったようです。 そこで今回は鎌倉時代、生水が原因で生命を落とした北条時子(ほうじょう ときこ)のエピソードを紹介。果たして、どんな最期を遂げたのでしょうか。 不義密通を疑われ…… 北条時子は生年不詳、後に鎌倉幕府の初代執権となる北条時政(演:坂東彌十郎)の娘として生まれました。 名前は時子と伝えられているものの出典は不明。時政の娘だから政子(演:小池栄子)と名付けられた姉妹と同じ要領でそう呼ばれるようになったのでしょう。
長い日本の歴史のなかでは、さまざまな出来事や事件が起きています。「関ヶ原の戦い」「大阪夏の陣」「桜田門外の変」「承久の乱」「後三年の役」など、大きな出来事を表すときにも、ひとつの言葉ではなく「戦・陣・変・乱・役」といったさまざまな用語が使われます。 しかし、それらの詳しい違いや定義を知っている方はあまり多くないのではないでしょうか。 今回の記事では、「戦・陣・変・乱・役」のそれぞれの用語が示す意味をご紹介します。 (※なお、それぞれの定義については諸説あります。学者の見方や考え方によっては必ずしも以下と一致しない場合もあります。あらかじめご了承ください。) 「戦」は局地的な戦闘を表す 「合戦」や「戦争」などと同じような意味を持つ「戦(いくさ・たたかい)」。戦争は連続する戦いを示すことが多い一方、「戦」は局地的な戦闘を表すという特徴があります(石橋山の戦い・川中島の戦い・関ヶ原の戦いなど)。
サイクロトロンとは? 終戦直後、GHQ(General Headquarters:連合国最高司令官総司令部)は日本にあるさまざまなものを破壊しましたが、理化学研究所にあった「サイクロトロン(円形加速器)」もそのひとつです。 しかしこれは、GHQの無知といい加減さによる「暴挙」だったことが明らかになり、後に世界の科学者たちから非難されました。 事の経緯を追っていきます。 サイクロトロンとは、高周波電場と電磁石を使った荷電粒子加速器のことです。原子核物理学上の重要装置の一つでした。 原子核物理学は私たちの生活にも大きく関わる学問で、医療や農業、セキュリティなど幅広い分野で活用されていますが、1945年当時の日本にはサイクロトロンが複数台存在し、そのうち東京の理化学研究所にあったものは世界最大級のものでした。 これを製作した理化学研究所の仁科芳雄博士は、戦後サイクロトロンを使って放射性同位体を作
かつての日本の政権では、重要な官職を得るためには位階とそれなりの家柄が必要でした。 戦国時代の武将たちは、単に戦で武功をあげることのみならず、高い位階と官職を得ることに執心していたようです。 その一例としてよく知られているのが、徳川家康の源氏改姓問題です。 1566年、三河統一を成し遂げた家康は織田信長との同盟を背景に戦国大名への道を歩み出していました。その年の暮れに家康は従五位下・三河守への官位認定と、松平から徳川への改称を申請しました。 ところが、正親町天皇は「先例にないため公家には出来ない」とのことからこれを拒否。そこで、家康は浄土宗の僧侶を通じて関白の近衛前久から協力を仰ぐことにしました。 すると、当時近藤家に仕え、神祇官でもあった吉田兼右が万里小路家で旧記から源氏の新田氏系の得川(とくがわ)氏の流れで藤原の姓になったという先例をみつけだし、懐紙に写し取りました。 それを前久が清書
今回は19世紀後半、主に長崎や熊本から東アジア・東南アジアに渡って働いた日本人娼婦「からゆきさん」の悲しい歴史について紹介します。 からゆきさんの歴史 からゆきさんの歴史を遡ると江戸時代まで辿る事ができます。1639年(寛永16年)ごろに西洋との唯一の窓口として栄えた長崎に丸山遊廓が誕生。 江戸幕府は出島や唐人屋敷への出入り資格を制限していましたが、丸山遊郭の遊女は例外として許されていました。 日本人男性相手の「日本行」の遊女とは明確に区別され、出島へ赴く遊女たちは「紅毛行」、唐人屋敷へ赴く遊女たちは「唐人行」と称されました。「唐人行」とは中国人を相手にする遊女らを指したもので、それが「からゆきさん」の語源となったのです。 ちなみに実際には江戸時代からすでに長崎の外国人貿易業者により何万人もの日本人女性が妻妾や売春婦として東南アジアなどに渡り、からゆきさんとなっていたとされています。 更に
”トーハク”の愛称で親しまれている東京国立博物館が令和4年(2022)で創立150年を迎えたことを記念して、とんでもない特別展を開催します。 なんと東京国立博物館が所蔵する国宝89件をすべて公開するという、その名も特別展「国宝 東京国立博物館のすべて」。 同館は明治5年(1872)の発足以来、日本でもっとも長い歴史をもつ博物館として、日本の文化を未来へ、そして世界へ伝えていく役割を果たしてきました。 本展では、150年の間に積み重ねられた約12万件という膨大な所蔵品の中から、国宝89件すべてを含む名品と、明治から令和にいたる150年の歩みを物語る関連資料を通して、東京国立博物館の全貌を紹介。 東京国立博物館が所蔵する国宝89件すべてを展示(会期中展示替えあり)するのは150年の歴史上はじめての奇跡的なことで、メモリアルイヤーにふさわしい展示となることでしょう。 なお、国宝となっている刀剣全
命を賭した戦法 乱世の戦国時代がいよいよ終わりつつあった1600年、かの関ヶ原の戦いで、島津義弘が企てた「捨て奸(すてがまり)」という戦略がありました。 これはなんと、敵軍の中を正面突破して、とにかくいくら犠牲を払ってもいいから敵をできるだけ長い時間足止めし、本隊だけは逃れさせるというものでした。 当時は、徳川家康と石田三成が、それぞれ大名たちを動員して東軍・西軍に分かれて戦いを繰り広げていました。島津は西軍です。しかし次第に形勢不利になっていく中で、撤退戦略として採用されたのが「捨て奸」だったのです。 部隊の最後尾を務めるしんがりの中から、さらに少部隊を置き、追ってくる敵を食い止めるために死ぬまで戦わせます。 小部隊が全滅したらまた新しく小部隊を置き、敵を食い止める。これを繰り返し、その間に本隊と大将が逃げることができれば成功と見なす、という戦法でした。 島津隊は退路に配置した銃を持つ兵
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