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米軍機墜落事故による 塗炭の苦しみを味わった母と子の悲話(横浜市青葉区・中区) - みうけんのヨコハマ原付紀行
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米軍機墜落事故による 塗炭の苦しみを味わった母と子の悲話(横浜市青葉区・中区) - みうけんのヨコハマ原付紀行
東急田園都市線の江田駅から西側、ゆるやかな坂を登って行ったところの住宅街の中に、訪れる人も少なく... 東急田園都市線の江田駅から西側、ゆるやかな坂を登って行ったところの住宅街の中に、訪れる人も少なくひっそりと木々に埋もれるようにしてあるのが、大入公園という小さな児童公園である。 今となっては、ただ平坦な地面に遊具と砂場が並び、その周りを木々がうっそうと生い茂る、何の変哲もない児童公園であるが、この公園こそが昭和52年(1977年)9月27日に起きた、聞くのも悲しき悲劇惨劇の舞台なのである。 先ほども書いた昭和52年の当時は、この近辺は山林を切り開いたニュータウン開発が進んでいる頃であり、事故から2年後の昭和54年の航空写真では事故の現場を中心に数軒の民家が立つのみである。 この2年前は、もう少し家が建ち並び、新しく引っ越してきた家族たちがこれから発展していく街に希望を込めて、新しい生活を始めたばかりだったろう。 そんな昭和52年(1977年)秋の昼下がり、厚木基地を離陸して太平洋上の空母ミ