ヴェルニー公園~観音埼灯台~走水神社(7)
ごくごく小さな神社だ。でも、日本書紀の世界とも通じるごくごく長い歴史を持つ神社なのだ。
散歩の締めくくりはここにしようと行く前から決めていた。訪ねてみて良かった。







古事記(712年)や日本書紀(720年)に出てくる歴史ある地名。どんないわれがあるかは、下記記事を参照されたい。夫のために妻が自らの命と引き替えに…、凄いやり取りがあったものだ。
漢字混じりの文だとこうなる。
さねさし 相模(さがむ)の小野に 燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも
意味合いは以下のようだ。
相模の小野で炎に囲まれたとき、火の粉が御自分に掛かっていることにも気に留めず、ひたすら私の身を案じて下さった貴方‥‥‥
弟橘媛命の歌碑



走水の地名は、すでに古事記(712年)や日本書紀(720年)の中に表れています。大和朝廷時代には、上総(千葉県)を経て東北地方に渡る最も便利な道として、この地方に古東海道が通じておりました。
走水神社の祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)とその后弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)の二柱です。神社の創建された年代については、享保年間の火災で、神社の記録や社宝が焼失してしまったのでわかりません。
伝説では、景行天皇の即位四十年(110)、東夷征討の命を受けた日本武尊が、この走水から上総へ渡られるにあたり、村民に「冠」を賜りましたので、冠を石櫃(いしびつ)に納めて、その上に社殿を建て、尊を祭ったことに始まると伝えています。日本武尊が渡海の際、海上が荒れ、いまにも舟が沈みそうになりました。海神の怒りであると考えられた弟橘媛命は、
さねさしさがむのをぬにもゆるひの
ほなかにたちてとひしきみはも
の歌を残し、尊に代わって海に身を投じ、風波を鎮めました。弟橘媛命は、もと旗山崎に橘神社として祭られていましたが、その地が軍用地に買収されたため、明治四十二年、この神社に祭られました。
明治四十三年六月、弟橘媛命の歌碑が、東郷平八郎、乃木希典など七名士により、社殿の裏手に建てられました。
社殿の階段下の右側にある「舵の碑」は、弟橘媛命の崇高な行いにあやかり、航海の安全を願って国際婦人年(昭和五十年)を機に、また、左側にある「包丁塚(ほうちょうづか)」は、走水の住人大伴黒主(おおとものくろぬし)が日本武尊に料理を献じて喜ばれたとの古事により、包丁への感謝と鳥獣魚介類の霊を慰めるため、昭和四十八年に建てられたものです。
社殿の階段下にある碑
弟橘媛命の舵の碑


針の碑


旗山崎(御所ヶ崎)
上記説明の通り、かつて弟橘媛命が橘神社に祀られていた場所
走水港を抱くように海に突き出た小さな岬、旗山崎(御所ヶ崎)。現在、その頂に登ることはできないが、ここには『古事記』や『日本書紀』の中の東征説話に登場する日本武尊の伝承があり、その地名は尊(ミコト)が東征したとき、ここに臨時の御所を設け、軍旗を立てたという伝説に由来する。



弟橘媛(オトタチバナヒメ)が詳しく説明されているサイトへjump
以上で『ヴェルニー公園~観音埼灯台~走水神社』の記事は終わりです。
ずっとお付き合いいただき有難う御座いました。
AzTakさん
おはようございます。
いよいよ最終章の走水神社ですね。
第1章の時は走水神社の読み方をwikiで調べるところからのスタートでした。
wikiのページに掲載されている神社の写真より明るく開放的なところなんですね。
小生の隠宅から徒歩30分ぐらいのところに日本武尊 所縁の氷上姉子神社があります。JRのウォーキングラリーコースにもなっておりますので、気合を入れて撮り
記事アップをします。
coming soon
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