大宮日記 ラテン語、チョコザップ、漢文、大宮図書館

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【読了】中村逹『私が諸島である』書肆侃侃房

さいたま市立桜図書館所蔵

www.e-hon.ne.jp

2024/11/30 大宮図書館より借入
2024/12/12 読書開始
2024/12/13 読了
2024/12/14 大宮図書館へ返却

 

悲しいかな、「カリブ海」と聞いて思い浮かぶのは、珈琲色の肌をしたフェロモン過剰の肢体が灼熱の波打ち際でサンバしているとか、海賊とか、だったのなあ。ごめんなさい。
だって、カリブ海「思想」ですよ。「思想」というからには「歴史」があり「文化」があるわけで。
まず、ブラスウェイトである。

確かに、ブラスウェイトのクレオール社会論は植民地時代の白人、混血、黒人でグラデーションされたジャマイカの社会をモデルにしており、インド系やその他の人種の人々によるカリブ海独自の文化への貢献を射程に収め切れていないかもしれない。しかしそれでも、ヨーロッパとアフリカ間の「衝突が生んだあつれきは残酷なものだったが、それはまた創造的でもあった」という彼のテーゼが、植民地主義を通して抑圧された人々の文化的主体性を擁護し、カリブ海における人種間の衝突の果てに生まれた特有の文化を称賛する、カリブ海の創造的思想の発展の礎となったのは確かだ。(P.104-5)

そして仏語圏のグリッサン。

グリッサンは、アイデンティティに対して多様性という概念を持ち出す。「多様性という概念は統一という概念と正反対ではありません。私はこうも思うのです。多様性について考えるほど、統一を実現する機会は多くあると」。もしカリブ海において「統一は海面下にある」のならば、その統一は単一性や血統、純粋性といった概念に依拠し集中することによって実現するものではない。むしろ、様々な人種や民族の多様性を肯定し、様々な文化の分散を総体として見なすことによって出来上がるのだ。言い換えれば、カリブ海における海面下統一は、集中による一ではなく、分散による多なのである。グリッサンはこう述べる。「私たちはルーツによる分け隔てとしてではなく、網状な関係性として別の種類のアイデンティティを定義しようとしなければなりません」(P.119)

分散による「海面下の統一」。カリブ海の凄まじい400年を思い、その着地点としてこの風景を獲得するのなら、涙が止まらないだろう。だって、1492年以降先住民は絶滅させられ、真空地帯と化したその地に暴力的に連行されたアフリカ人がプランテーション奴隷とされ、「奴隷解放」後にはインド系が年季奉公人として流入し、未だに植民地的構造の中で喘ぐ社会…という歴史も文化もクソまみれの中でだよ…、全世界が暴力的に衝突し混淆したともいえるこのカリブの海でそれらが衝突し消滅したのではなく新たな思想が、歴史が、文化が芽生えたのだとすれば、これを人類の未来の可能性と言わずして何と言ったらいいのか。ええ?

最後に、本書内でも引用されたジャマイカ詩人マーヴィン・モリスの詩「西インド諸島を定義する者へ」を掲出する。

諸島は私である。

あなたの知性は、不満を覚える
そこにありながらもレッテルを貼れないことに。
300万人と
われわれのいくつかの領土に
アフリカイングランドアメリポルトガルそしてスペイン
インドとフランス中国シリア
黒くて茶色で黄色くピンク色にクリーム色で
若くて中年の老いぼれで生命力溢れ
ジョン・カヌー・ケレーカーニヴァル
ホセイラ・マグリットそれにインデペンデンス・デイ
我々の英語賛美歌クレオール語の諺
スチールバンドカリプソロックンロール

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これらすべて
これらすべてを、望めばもっとだ。
すぐに乾いてしまう定義に固定できるものか。
我々を詰め込もうとしてはいけない
あなたのその小さな箱の中に。
あなたの定義は必然的に偽りだ
さもなければ、我々は死んでいるのだ。