ショートストーリー喫茶

生活の合間にさっと読める短編小説を更新しています。

真夜中の本屋でペタペタ

その本屋は、駅前の通りが眠りにつく頃、ひっそりと存在感を取り戻す。

 

 午前二時。

 店の正面は部分的にガラス張りになっていて、外から中が少しだけ見える。営業しているわけではない。ただ、天井から吊るされた電球がいくつか、柔らかな橙色の灯りを落としているだけだ。

 

 本棚の影が床に長く伸び、背表紙の文字は夢を見ているように静かだった。

 

 その静けさの中に、奇妙な音が混じる。

 

 ペタ、ペタ、ペタ。

 

 床を踏む、間の抜けた足音。

 

 本屋の通路を、なぜか一羽のアヒルが闊歩していた。

 

 白い羽毛は少しくすみ、オレンジ色の足が磨かれた床に触れるたび、控えめに音を立てる。急ぐ様子はなく、むしろこの場所を知り尽くしているかのようだ。

 

 アヒルは新刊コーナーで立ち止まり、首を傾げた。

 帯の言葉をじっと見つめ、納得がいかないのか、小さくクワッと鳴く。

 

 次は文庫本の棚。

 さらに実用書。

 電球の光が羽毛に当たり、ほんのりと影が揺れる。

 

 文学コーナーに来たとき、アヒルの歩みは遅くなった。

 

 古びた一冊の小説の前で足を止め、くちばしでそっと背表紙をつつく。

 

 ペタ……ペタ……。

 

 なぜかその本の前では、音が小さくなる。

 

 このアヒルは、かつてこの本屋の店主だった。

 ――その事実を知る人は、もういない。

 

 店主は夜の本屋が好きだった。

 ガラス越しに街灯が反射し、電球の光の中で本と向き合う時間。誰にも急かされず、ただ棚の間を歩く夜。

 

 死後、なぜアヒルになったのかはわからない。

 だが、足が自然とこの床を覚えていた。

 

 アヒルはレジの前に立ち、ガラス越しに静まり返った通りを眺めた。

 満足そうに一度だけ鳴く。

 

 クワッ。

 

 やがて電球が一つ、また一つと消えていく。

 アヒルは奥へ続く影の中へと歩き出した。

 

 最後に、床を一度だけ踏む。

 

 ペタ。

 

 朝になれば、この本屋はまた何事もなかったような顔をする。

 床に残るのは、かすかな足跡と、紙とインクの匂いだけ。

 

 真夜中の本屋で、今日もアヒルはペタペタと歩く。

 

 

屋台でフレンチフルコース

その屋台は、

駅前の端に出ていた。

 

ラーメン、

たこ焼き、

焼き鳥。

 

その並びの中に、

ひとつだけ、

白い布をかけた屋台がある。

 

看板には、

小さく書いてあった。

 

「フルコース」

 

値段は、

屋台としては高く、

フレンチとしては安い。

 

興味が勝って、

私は腰を下ろした。

 

カウンターは、

木製で、

少しベタついている。

 

シェフは、

白いコック帽をかぶっているが、

足元は、

サンダルだった。

 

最初に出てきたのは、

前菜。

 

紙皿にのった、

一口サイズの何か。

 

説明はない。

 

食べると、

ちゃんと、

フレンチだった。

 

塩気がやさしく、

知らないハーブの香りがする。

 

次は、

スープ。

 

発泡スチロールの器だ。

 

だが、

中身は、

澄んでいて、

深い。

 

屋台のざわめきが、

一瞬、

遠くなる。

 

周りでは、

ラーメンをすする音、

ビールを開ける音。

 

その中で、

私は、

ゆっくり飲む。

 

魚料理。

 

皮はパリッと、

身はふわっとしている。

 

添えられたソースを、

こぼさないように、

少し緊張する。

 

肉料理は、

紙ナプキンに包まれてきた。

 

柔らかく、

噛むたびに、

肉の味が広がる。

 

ナイフはない。

 

歯で切れる。

 

最後は、

デザート。

 

屋台の端で、

小さなガスバーナーが鳴る。

 

キャラメリゼの音。

 

クレームブリュレ

 

スプーンは、

プラスチックだ。

 

食べ終わると、

シェフが聞いた。

 

「いかがでしたか」

 

私は、

少し考えて、

答えた。

 

「屋台でした」

 

シェフは、

笑った。

 

「フレンチでしたよ」

 

勘定を払って、

立ち上がる。

 

夜風が、

急に現実を連れてくる。

 

後ろを見ると、

屋台は、

もう普通の屋台に見えた。

 

ラーメンの匂い。

焼き鳥の煙。

 

でも、

口の中には、

まだ、

あの味が残っている。

 

屋台で、

フレンチのフルコース。

 

そんな夜が、

あってもいい。

 

「屋台でした」という感想は、けなしているわけでも、褒めきれていないわけでもない。

味や構成、順番、余韻――それがフレンチの文法を守っていれば、それはもうフレンチだ

その曖昧さを、否定せずに、視点をひとつだけずらして返している

 

 足があるから、遠くへ行ける。

 人はよく、そう言う。

 

 旅に出られるのも、知らない場所へ行けるのも、足があるからだと。

 それは祝福の言葉のように聞こえる。

 

 だが、足があるから、動かざるをえない、とは考えないのだろうか。

 

 足は人を前へ押し出す。

 望まない朝にも、行きたくない場所にも、ためらいなく連れていく。

 止まっていることは怠慢とされ、歩くことだけが正しさになる。

 

 遠くへ行ける自由は、

 同時に、ここに留まれない不自由だ。

 

 立ち止まる理由を、

 いつも説明しなければならない生き物。

 それが、人間だ。

 

 ――と、土の中から私は思う。

 

 私は植物だ。

 生まれたときから、ここにいる。

 

 足はない。

 だから逃げない。

 だから迷わない。

 

 私は根を張る。

 深く、静かに、土とつながる。

 栄養は勝手に流れ込んでくるわけではないが、動き回る必要もない。

 

 風が吹けば揺れ、

 雨が降れば吸い、

 光が来れば伸びる。

 

 それだけで、私は足りている。

 

 足のある生き物たちは、忙しなく通り過ぎていく。

 行けるから行き、

 動けるから動き、

 疲れても止まれない。

 

 私から見れば、あれは奇妙な存在だ。

 

 自分の居場所を定められず、

 土に根を張ることもできず、

 歩き続けなければ生きられない。

 

 栄養を、世界から直接受け取ることもできない。

 

 足を持ち、自由を誇るその姿は、

 私にはこう映る。

 

 ――ああ、なんて出来損ないなのだろう。

 

 根も張れず、

 ただ移動することでしか、生を保てない生き物。

 

 それでも今日も、

 私はここで育ち、

 彼らは遠くへ行く。

 

 足があるから。

 

どこもかしこもおじさん

気づいたら、

どこもかしこもおじさんだった。

 

駅前に立っているのも、

ベンチに座っているのも、

信号待ちで腕を組んでいるのも、

全部、おじさん。

 

若い人もいる。

はずなのに、

目に入ると、

おじさんに見える。

 

背中が丸く、

少し前のめりで、

同じような色の服を着ている。

 

最初は、

自分が年を取ったせいだと思った。

 

視界が、

そういうふうに

補正されているのだと。

 

でも、

ある日、

写真を撮ってみて、

少し変だと気づいた。

 

写っている。

 

本当に、

おじさんばかりなのだ。

 

カフェも、

電車も、

公園も。

 

どこもかしこも、

おじさん。

 

皆、

似たような顔で、

似たような話をしている。

 

「昔はな」

「最近の若いのは」

「まあ、仕方ない」

 

文句というほどでもなく、

希望というほどでもない。

 

ちょうど、

そのあいだ。

 

街は、

静かに回っている。

 

たぶん、

この先も増える。

 

おじさんは、

減らない。

 

どこもかしこも、

おじさん。

 

それが、

世界の完成形なのかもしれない。

 

 

ムンクの叫び

美術館の静寂の中で、絵画を見つめる者がいた。

ムンクの叫び」――鮮烈な赤と青、歪んだ人影、深い絶望の表情。

 

しかし、その裏に隠された真実を知る者は少なかった。

それは、ただの表現ではなく、未来の地獄を予言する警告だったのだ。

 

時代は近未来。

空は異常な光に覆われ、地平線を彩るはずの夕日は消え、世界はオーロラのような異様な光に包まれる。

人々はその美しさに魅了されるが、胸の奥では底知れぬ恐怖がうずく。

 

そして、どこからともなく声が響く。

 

「…我が声を聞け、地獄の大王の声…」

 

人々の心は叫び、世界は歪む。

建物は揺れ、街の空気は熱と冷気の渦を巻き、海は逆流し、森は炎と霧に包まれる。

ムンクの絵に描かれたあの人物の口が、今まさに世界の上で開き、全人類の恐怖と絶望を代弁しているかのようだった。

 

科学者たちは解析する。

「この現象は、観測不能な次元干渉…?」「人類の心理と空間の歪みが同期している…?」

だが理論は空しく、オーロラはさらに強烈に世界を覆い、地獄の大王の声は、心の奥底まで振動する。

 

人々は次々と立ちすくみ、叫び声を上げ、また沈黙する。

絵の中の人物と同じ表情を、街のあらゆる顔に見出すことができた。

「これは…予言だったのか」

 

最後に残るのは、赤と青の光、歪む空、そして全てを見下ろす声だけ。

ムンクの叫びは、過去の芸術ではなく、未来の世界を映す鏡だったのだ。

 

静かに、しかし確実に。

絵の中の叫びは、今日も世界のどこかで再現されつつある。

見る者の心に、絶望の波が広がる限り――。

 

 

わなにはまってこんにちは

玄関を開けた瞬間、

足元で「カチッ」と音がした。

 

こんにちは、

という声が聞こえた気がした。

 

靴を脱ぎかけたまま、

動けなくなる。

 

床には、

見覚えのない金属の輪があった。

 

罠だ、

と理解するまでに、

少し時間がかかった。

 

山で使うような、

獣用のものではない。

 

もっと、

生活に馴染んだ形をしている。

 

丸く、

角が取れていて、

安全そうに見える。

 

痛みは、

ない。

 

ただ、

足首が、

そこに「収まっている」。

 

外そうとすると、

また、

「こんにちは」と鳴った。

 

音声案内だった。

 

罠は、

丁寧だった。

 

無理に外すと危険です。

担当者が伺います。

そのままお待ちください。

 

誰の担当なのかは、

言わない。

 

玄関のドアは、

開いたままだ。

 

通行人が、

こちらを見ている。

 

目が合うと、

気まずそうに逸らされる。

 

助けを呼ぼうとしたが、

声が出なかった。

 

正確には、

出るのだが、

言葉にならない。

 

喉の奥で、

引っかかる。

 

罠が、

私の状態を把握している気がした。

 

焦り。

恐怖。

混乱。

 

それらが、

一定値を超えると、

また、

こんにちは、と鳴る。

 

落ち着いてください。

正常な反応です。

 

罠は、

優しい。

 

その優しさが、

腹立たしかった。

 

時間が経つにつれ、

周囲の音が、

遠のいていく。

 

街の気配が、

私から離れていく。

 

いつの間にか、

通行人はいなくなっていた。

 

代わりに、

同じように立ち尽くしている人が、

点々と見える。

 

皆、

どこかに「収まって」いる。

 

足。

手首。

首元。

 

誰も、

叫ばない。

 

罠は、

気づかれない形で、

増えている。

 

こんにちは、

という挨拶と一緒に。

 

私は、

自分がいつから

この罠を踏む予定だったのか、

思い出せない。

 

ただ、

玄関を開けただけだ。

 

それだけで、

十分だったらしい。

 

また、

音が鳴る。

 

こんにちは。

ようこそ。

 

わなにはまって、

こんにちは。

 

ここからは、

あなたの居場所です。

 

 

評価係

人事部は困っていた。

 

評価制度が、もう機能していなかったのだ。

 

成果は数値化できても、

努力は見えず、

協調性は主観に左右され、

「頑張っている気がする」という言葉だけが会議室に残る。

 

誰もが不満だった。

評価する側も、される側も。

 

そこで人事部は、

評価から人間を外すことにした。

 

最初はAI案が出た。

次に外部コンサル。

最終的に残ったのが、

なぜか却下されなかった案だった。

 

「猫にやってもらうのはどうでしょう」

 

理由は明確だった。

 

・好き嫌いがはっきりしている

・忖度しない

・説明を求められない

・責任を取らなくていい

 

そして何より、

結果に文句を言いづらい。

 

一週間後、

人事部には三匹の猫が配属された。

 

評価方法は単純だった。

 

社員が一人ずつ、

猫のいる部屋に入る。

十分ほど、何もせずに座る。

猫の行動が、そのまま評価になる。

 

近づいてくる。

膝に乗る。

無視する。

威嚇する。

部屋から出ていく。

 

それだけだ。

 

最初は半信半疑だった社員たちも、

次第に納得し始めた。

 

猫に好かれる社員は、

なぜかチーム内でも評判が良い。

猫に嫌われる社員は、

後から問題が発覚することが多かった。

 

「意外と当たるな」

 

誰かが言い始め、

誰も否定しなかった。

 

評価結果は、

こうして決まるようになった。

 

昇進:猫が自ら近づいた者

現状維持:無反応

要改善:威嚇された者

 

理由の記載欄は、最初から空白だった。

 

問題が起きたのは、

ある中堅社員の評価だった。

 

猫たちは、

その社員が部屋に入った瞬間、

全員が同時に逃げ出した。

 

隅で固まり、

低く唸り続けた。

 

前例がなかった。

 

人事部は悩んだ末、

評価を「保留」にした。

 

その社員は数か月後、

突然退職した。

理由は分からない。

 

その後も、

猫の評価は続いた。

 

ただ、

猫たちの行動が少しずつ変わっていった。

 

人事部の職員に対しても、

同じように反応するようになったのだ。

 

書類を運ぶ人。

評価表を作る人。

会議で決定を下す人。

 

猫は、

評価対象を区別しなかった。

 

ある日、

人事部の部屋に入れる人間が、

いなくなった。

 

猫たちが、

誰も通さなくなったからだ。

 

会社は混乱したが、

評価制度は廃止されなかった。

 

なぜなら、

その頃にはもう、

誰も「評価する側」に

戻りたいとは思わなかったからだ。

 

猫は今日も、

人事部の部屋で眠っている。

 

誰を評価しているのか、

誰が評価されているのか。

 

それを知っているのは、

猫だけだった。