FIREその後「小笠原諸島」③

私はFIREに拘りは無く、それがセミリタイアでも何ら問題ないと考えている。仕事が嫌で辞めたというよりも、やりたいことをやってみたいという気持ちが強く長年勤めた会社を退職した。ただしそれにはそれなりの準備を入念にした。
48歳で会社を離職するということはどういう影響が考えられるか。思いつくだけでもいくつもの不安がそこには存在した。老後、年金、生活費、孤独、再就職はできないだろうなど・・・。いくつもの不安や犠牲がその決断には必要だろうことも十分に想像できた。いったい何歳まで生きるのだろうか、そんなことも当然ながら不明で、どのくらいの資金を持っておく必要があるのかも想像するに難しかった。
ただし入念に準備を怠ることはなかった。毎月の生活費を細かく控え、年間どのくらいか、そして3年5年でその平均値はどのくらいか。今後予想される様々なこと(インフレ、病気などのリスクやイレギュラーな出費も考えて予算を数年間作り続けては、加筆修正を重ねた)
「小笠原諸島ではウミガメを食す文化がある。古くから続く習慣であり、過去に陸と続くことが無かった小笠原諸島としては貴重なタンパク質だったのかも知れない。今回一度だけお店で味わうことができた。味は馬刺しとそっくりで、変な癖も無くとてもおいしい味わいでした。小笠原諸島ではごく普通に食されている食べ物です」
FIREその後「小笠原諸島」②

東京は竹芝桟橋からおよそ24時間。厳密には今回は珍しく遅れて24時間30分程度を要する航海ととなった。竹芝桟橋から出港する日も雨、そして小笠原二見湾への入港時もまた雨だったが、私は天候に逆らわないことにしている(いや天候に逆らうことなどできようもないが)。
2025年3月末で21年間お世話になった職場を退職し、FIREをした。そして4月12日に小笠原を目指した。小笠原諸島への旅は今回初めてだった。私は日本全国の「ビーチでどこが一番美しいのか」を探る旅をまず継続していこうと考えていた。その中でなかなか訪問が難しい小笠原の海をまず確認をしたかった。
海の風景をどのように感じるかにおいてとても重要なのが、太陽の存在。太陽が無いと海はいつもの輝かしいその実力を見せてくれない。永遠に旅を続けることができれば太陽が出るまで待てば良いのだが、そういう訳にもまたいかないのが実情。
これはFIREをしたからといって大きく変わることは無い。旅にはある程度の制約があって、特に日程上の制約はFIRE後でも無くなることは無い。ただしアドバンテージは少なからず存在し、私はこの小笠原への旅に約10日間の滞在時間と3日間の移動時間を充てることができた。
時に雨に遭遇することもまた台風に遭遇することも、それは旅であると以前より考えて旅を繰り返してきた。そう、天候に逆らうことも変更を強制することも私にはできないのだ。まずはこのどんよりと曇った小笠原諸島とゆっくりと対峙していこうと考えて私の小笠原でのスタートを切ったー
FIREその後「小笠原諸島」

東京から24時間ーいったいそんな日本の場所がどのくらいあるのだろうか。
沖縄の最南端の波照間島でさえそんなにかかることは無い。しかも訪問手段の選択肢が船一択なのだ・・。もはや外国も含めてこれだけ秘境に近い場所はそれほど多くないのかもしれない。
私は3月末でFIREをした。当初はセミリタイアで進めていくつもりだったが、今はそのどちらでも良いと思うようになった。その理由としてまずもって時間が無い。人生どこまで生きていけるかは誰も予想できない、その目安として「健康寿命」を意識するようになった。男性の健康寿命がおおよそ73~74歳。私は今48歳でまもなく49歳になろうとしている。そう、私にとって猶予は「たった24年程度」しか残っていないという現実に改めて驚愕した。
1年は一瞬でまるで台風のように通り過ぎると感じている私にとってもはや24年という歳月はセミリタイアを躊躇するタイミングでは無かった。そしてその区切りをつけ、今ようやくと24時間をかけて「東京都」の遙か南の同じ東京都である小笠原諸島へ降り立ったー
FIRE達成

2025年3月末でついにFIREを達成した。最後の踏ん切りはもう思い切りだけでしか無く、そっと自分自身を押し出した感じの退職伝達だった。もちろん退職を止められもしたし退職まで半年ほどの時間的猶予を引継ぎのために作った。
2025年4月から早速トランプ関税ショックで資産が減少したが、もうこれまでにも数多くの下落相場を体験し、下落耐性を今まで練習のようにつけてきたことが精神的余裕を現在も持つことができている。
50歳までに退職をして健康寿命までのわずかな期間を大切に生きたいと考えてそれなりの時間が経過した。タイミングは少しだけ早かったけれど48歳9ヶ月で大きく人生の舵を切ることができた。
さて、これからこれから。何をするのも自由だし、そこに責任は存在する。右に行くのも左に行くのも、また立ち止まるのもすべては自分自身に委ねられている。
夢いっぱいとはいかないが、自由への荷物を詰め込んで私は小笠原諸島へ旅に出ようとしていた。
沖縄への想い②

職務上、沖縄に住み始めたのが今から約26年前。当時はモノレールもまだ作り始めの状況でもちろん美ら海水族館も存在しなかった。美しい海と南国の太陽の照り返しを代表とする素のままのオキナワが感じられた頃だったのかもしれない。
旅行をするということと、実際にそこに住むということはやはりいろいろと違ってくる。旅行で訪問すれば、帰るのがさみしくなり名残惜しさを感じることでしょう。住めば都とも言いますが、実際のところ住んでみると幾多の「こんなはずではなかった」や観光地を旅行する状況とは考えられないことに遭遇する。
住み始めた当初は、まるで異空間のような沖縄の生活に毎日驚き、新しい出会いや経験もあり楽しい生活の始まりを十分に予感させた。
しかしながら、数ヶ月もすると当然ながら仕事という束縛から離れることはできず、中心が仕事へとシフトしていく。そうすると周りの風景が一瞬に変化をしていく。旅行時に感じるワクワク感や楽しみが、ごく普通の忙しい日常に変化し目に見える風景が薄く流れていくように感じられる。そこに驚きも感動もなくなり日々職務に追われるだけのまるでブラックホールのような空間に迷い込んだ感覚がよぎった。
ブラックホールとは少し言い過ぎかもしれないが、風景が流れていくという表現は少し言い当てているのかもしれない。風景に感情が左右されない、美しいものを美しいと素直に感じられる感覚が薄れていくというイメージだった。
最終的にちょうど3年間沖縄に住み、退職とともに離れることになった。とてもよい沖縄の風景や感覚が、長期滞在と仕事の軋轢により疲弊していくのが感じられた。四季の感覚がなくなることすら疎ましく感じ、離れることにさびしさのひとつも感じることはなかったー
沖縄を離れてからようやく沖縄の良さを認識することになり、その後毎年のように沖縄へ旅行することになるー
セミリタイアへ向けて

<写真>北海道ではゴルフ中にごく普通に鹿と出くわす
<セミリタイア考察>
長年計画していたセミリタイアがいよいよ近くに感じるようになったー
株式市場の幾多の下げ相場も経験し、精神的に今後下げ相場が訪れても耐えられると感じられるようになり、さらに一歩セミリタイアへ近づけた気がする。
耐性の具体的な例として、仮に100万円のボーナスが振り込まれた翌日に株式市場が下落し、100万近くを失うというような状況を耐えることができた。ちなみにインデックス投資のみで実際起こりえた例えである。
また年齢的にも失敗は許されない状況なので、何度も何度もエクセル上でシミュレーションを繰り返し、基本的にはセミリタイアではなく、FIRE状態になれるようにシミュレーションを繰り返した。
窮屈なセミリタイアやFIREは想定外とした。最低でも現在の生活スタイルを維持できるような資金面の確保を念頭に、インフレ・イレギュラーな支出(病気やその他)も想定しながらおおよそ90歳現在の資産がどの程度あるのか、計算を繰り返した。
健康寿命も意識をした。男性でいうと72歳~73歳が健康的に過ごすことができる寿命平均であり、現在の年齢48歳から考えると残り24年ほどしかないことに気づき、セミリタイアを早めることに至った。健康的に何かやりたいことができる時間がわずか24年しか無い(もっとも健康寿命以上でも健康に活躍されている方はおられるが)、そう思うとある程度のシミュレートができた以上ここに長居は不要と感じたー
現在地は今ここにある。そして20年ほど務めた現在の職場への退職意向の伝達等まだやるべきことは多い。
札幌への転勤-2 「受難・札幌生活」

札幌へ転勤して2年と数ヶ月が経過したー
思えばいろいろあったし、あっという間の2年半だったと思う。
世の中はコロナ禍、転勤早々に社内ほぼ全員がコロナに罹患し事務所閉鎖。
当時はコロナの情報も少なく、病院に入院する所員も数名おり、大げさではなく
生きるか死ぬかの状況だった。
マンションの部屋の水道凍結もしたし、雪道転んで病院にも通った。
たくさんの戸惑う経験もあったが、楽しいこともまたたくさんあったこの2年半
だったと思う。
2年半前に転勤について記事を書き、普通のサラリーマンとして最後の転勤で
あり、最後の勝負という気持ちで飛び込んだ札幌の生活。その結果が成功したのか
失敗したのかのジャッジメントは不明だけれども、そろそろセミリタイアへの
カウントダウンが始まろうとしているー
現在48歳。セミリタイアのリミットは49歳の12月と決めていた。リミットまでは
約1年半ほど時間があるが、私は今年の9月末にセミリタイアをスタートしようと
今考えている。