
〔口絵〕
・幸田延子女史と柴田環女史
・安藤幸子女史と神戸絢子女史
・賴母木こま女史と橘糸重女史
音樂界の婦人
一 音樂に乏しい家庭の空氣
幸田延子
指折り數ふれば早や二十餘年
經 た つて見ると造作も無いやうなものゝ、指折り數へて見ますと、早 は や二十何年と云ふ昔、今の女子高等師範學校が東京師範學校と云ふ名義になつて居りました時分、其 その 附屬學校へ私は通學致して居りました。當時、音樂を受持つて居られた先生はメーソンさんで、私も此の先生について唱歌を習つたことを記憶して居ります。
その頃また本郷森川町、只今の高等學校の前に、音樂取調掛と云ふものが出來て居りまして、メーソンさんは此處に住んで居られました。この音樂取調掛が後日 のち に音樂取調所と云ふ名義になりました。今日上野に在る東京音樂學校は、この音樂取調所からだんゝと変遷して來たもので御座います。
たゞ何とはなしにヴアイオリンを……
長く女子師範學校の校長として居られまして、昨年物故されました高嶺秀夫先生の御夫人がが、このメーソン先生の一番弟子で在 あ らつしやいましたが、昨年お亡くなりになりました。この奥さんは其の頃には未だ中村さんと仰有 おつしや いまして、私が音楽の手ほどきをして戴 いただ いたのは、この中村さんからで御座いました。
メーソンさんや中村さんに種々 いろいろ 願つて居りまするうち、唯だ何と云ふ気もなしに、私は音樂学校に這入 はい ることになりました。これは私が十五歳の砌 みぎり で、明治十三年のことゝ覚えて居ります。
その頃の音樂學校には、今日のやうに外國から參られた敎師がたはお一人も居られませんで、私がピアノの敎授を受けましたのは、瓜生男爵夫人からで御座いました。
今日はヴアイオリン專門になりましたが、その時分には、ヴアイオリン專門にならうなぞとは、夢にも思ひませんでした。また、その頃、音樂學校には、今日のやうに大勢の生徒が有ると云ふ譯 わけ ではなく、至つて少數の人で御座いまして、皆さん方大槪はピアノばかりを習つて居られました。また、私もピアノを學び通さうかと云ふやうにも思つて居りましたのでした。それが、私ばかり、他の人のしないヴアイオリンを學ばされるやうになりましたから、何ですか、他の人々 かたゞ よりも、餘計に課税されたやうに思はれまして、何と無く可厭(いや)に思はれましたのは、今日から考へますと、實に不思議なほどで御座います。先づ斯ういふ次第で、ヴアイオリンをはじめましたのですから、最初から何ういふ考へが在つての、何 ど うのと云ふ次第では無かつたので御座います。他人 ひと から學 やつ て見よと申され、その云はれたまゝに學んだと云ふに過ぎないので御座います。
ヴヰエナの三年
學校の名義が音樂取調所であつた頃にも、卒業された方もあつたでしやうが、東京音樂學校と云ふ名義になりましてからは、私が一番初めの卒業生であつたものと見へまして、卒業證書は第一號となつて居ります。爾来 それからのち だんゝと大勢 たいぜい の方が卒業されましたのですから、今日の卒業證書は何百號と云ふやうな番号になつて居ることゝ思ひます。ヂツトリツヒさんが、音樂學校へ見えられるやうになりましたのは、私の卒業する少し以前 まへ のことで御座いました。ですから、私はヂツトリツヒさんに就いて學んだのでは御座いませんのです。
学校を卒業後、私は更にヴヰエナで學ぶことになりまして彼國 あちら へ出向きました。その頃、音樂學校の外國語は英語ばかりでしたから、彼地へ參るにつきまして獨逸語を學んだので御座いました。彼地へ參りますと、何事も當時 そのころ は驚くことばかりで、それに御存知のやうに有名な大家 かたがゞ が居られましたから、留學中の三年間は耳と手との働き、練習に唯だゝ一三昧 いつさんまい になつて居りましたやうな次第でした。申 まを さばヴヰエナの三ケ年間は夢のやうに過ぎたとでも申しませうか、眞 ほん に彼地で音樂の十分発達致して居りますことは、羨しいことで御座います。これは、先頃二度目で歐洲 あちら へ参りました節にもつくゞ左樣感じました。
集會に不便な日本家屋
それに、御敎授を致して居る方々とも好く左樣 さう 申すことで御座いますが、未だ今日の日本には、お互に集つて、お茶でもいたゞき、親睦會とか、談話會とか云ふやうにして、音樂の小集會を催したいと思ひましても、何分にも適當な塲所がないので困ります。お互の家屋 うち が、斯ういふ集會の出來るやうに建てゝありますと、何の雜作も無いことなのですけれども、天井の低い日本風の家屋では、何うも斯ういふ集りには都合が宜しく御座いませんので……。
この点から考へますと、歐洲の家屋のやうな建築法 たてかた で御座いますと、何時何處のお家へ寄り合つても、直ぐに打ち解けた、音樂の小集會が出來まして、練習の助けとなるので御座いますけれども、これだけは、催したいと思ふばかりで、何分にも塲所の關係が思はしくないので、何時も困つて居るので御座います。
私に取ては音樂が唯一の慰樂
ヴヰエナの三年を夢の裡 うち に過ごしまして帰朝致しました後 のち は先頃、歐洲へ参りますまで、引きつゞき音樂學校敎授を致して居りましたので、私に音樂上どんな著しい苦心があつたか、何ういふ考へが有つて音樂を習ひはじめたなぞと申すやうな、むづかしいことは取止めて申上げ兼ますが、唯今の私に取りましては、音樂は確かに心の慰めでもあり、樂しみでも御座います。お酒を上 あが る方は、お酒で心を慰められ、花や植木を心慰 こゝろなぐ さにして居られることゝ思ひますが、それと恰度同じやうに、私も此の音樂をば心慰さに致して居ります。ですから、世間にお一人でも多く、音樂を解せられ、音樂趣味を持ち、音楽を心慰さとする方があるほど、日本の音樂も進んで行きます譯で、私と致しては、左樣いふ方々が日に増し殖 ふ え、歐米の家庭のやうに、日本の家庭でも、音樂を一般に家庭の方々の樂しみとさるゝ日が、一日 いちじつ でも早く到着することを望んで居るので御座います。何うも音樂に乏しい家庭の空氣は、何か物足りないやうで、何處となく陰気なやうに思はれまして……
二 獨逸の三年間
安藤幸子
歐洲の樂壇を風靡したヨワヒス先生
手を見てヴアイオリンを勸めらる
私に今少し體力があらば
三 橘糸重女史にお目かかる記
白芙蓉
名聞を好まれぬ斯道の名家
眩しい電燈の下にすらりとしたお姿
音樂家との會見にふさはしき琴の音 〔下は、その一部〕
「その鴎外さんの『即興詩人』のやうに認めることの出來る履歴でも私が持つて居りますと、それは、お話し致すことも有るので御座いませうが、何に致せ、唯だ空しく二十年ばかりも學校を教へて居ると申すばかりで、他には何のお話し致しますほどの經歷もない私で御座いますから……。」
「私は高等師範學校の附屬學校に居りました。それから、母や兄から申さるゝまゝに、音樂學校に這入つたと云ふばかりなので御座います。入學當時は勿論のこと、在學當時、卒業當時でさへ、母校で今日までも引きつヾき音樂を敎へるやうにならうなぞとは、更々思つて居りませんので御座いました。
御言葉は、また途切れた。途切れたお言葉は、また暫くしてから斷片的に發せられたのでありました。
若き樂人の意味深く味はふべきお言葉
「私は音樂が大好きで御座いますが、その好きと申すのは、他の方が上手になさるのを樂しく聞いて居りますことで御座いまして、私が自分で致すのは、樂しみ處ではなく、反て苦痛なほどで御座います。」
四 巴里で學ばれた神戸絢子女史
いくよ 〔下は、一部〕
苦しんだのも音樂、楽しんだのも音樂
「巴里 パリー で、特別に、私の心を慰めたものとては御座いません。-苦しんだのも音樂、樂しんだのも音樂……何しろ、この官立音樂堂(コンセルヴアトール)にても這入 はい つて居らるゝ方々は、皆な立派な素養のある方ばかりなのですから、日本から彼地へ參りたては、何うかして、斯ういふ人々と肩を並べたいものと、随分焦りも致しますし、骨も折りました。」
苦心を苦心とも思はず
「官立音樂堂は、我國 こちら の東京音樂學校とは違つて、皆な專門に習ふやうになつて居りまして、ピアノを終業するものは、ピアノばかり、ヴアイオリンを修業するものは、ヴイオリン一三昧になつて居ると云ふ状況 ありさま なのです。で、他の課目を學ぶと云ふ必要は御座りません。自修時間も十分あるやうでは御座いますが、それでも、私なぞには、未だゝ自修時間が不足のやうに思はれましたので御座います。」
五 音樂の修行から得た苦しい經験
東京音樂學校敎授 賴母木こま子
樂みよりも苦みが餘計
これぞと申す際立つた考へもなく、何の気もなしに東京音樂學校に這入り修行を致し、別に臨んだわけでもなく、卒業後引きつゞき、今日まで學校を敎へて居ると申す他には、私、何とも格別申し上げることも無いので御座います。先輩のお勸めがあつて、そのきつかけに音樂の修業をはじめたと云ふやうなことで私に在りませば兎も角、私の音樂をはじめましたのは、そんなきつかけなぞ有つた譯 わけ では無いので御座います。
今日と違ひまして、私の在學当時には、未だ音樂學校には餘計に生徒は御座いませんでした。それに、一時 ひとしきり なぞは、敎師の側でも、外國敎師の一人もお出でなかつた時も御座いました。何に致せ、音樂のことで御座いますから、他の人が御覽になりましたら、いかにも樂みの多いやうに思し召すか知れませんが、やはり、一つの職業になつて居りますと、樂しみと申すよりも、苦しみの方が餘計なので御座いまして、決して他からお考へになるやうなものではありません。それも、何か特別の天才でもあつたらば、また樂しみも御座いませうが、私のやうに天才どころか、何の取り所 え もないものには、決して音樂の楽しみなぞがあらう譯はないので御座います。
併しこれは、何の道でも同じことで御座いませう。それに私なぞは、宅へ帰りますと、主婦 かない で御座いますから、一軒の家相応の用事があるので御座いまして、唯今から考へますと、修業中の方が未だ音樂の楽みがあつたかも知れぬと、斯う思ふので御座います。
第一は天才、第二は忍耐
樂才が御座いませんなら、骨を折つて勉強致しました所であまり効 かひ がないかと思はれます。音樂學校なぞの生徒に致しましても左樣で御座います。先づ最初から、この人はと、目をつけた生徒は、進みも充分はか取るので御座いますが、左樣いふ生徒で御座いませんもので……。尤 もつと も、最初 はじめ に何うかと思はれた生徒 かた でも、だんゝ練習が積み、勉強を重ねるうちにはじめに考へましたとは違つて、大層見直すやうな人も無いのでは御座いませんが、斯ういふ人 かた はまた格別の人と云つても宜しいので御座いません。
日本の音樂と違ひまして、この西洋音樂の方は、取りかゝりが誠に退屈なもので御座いまして、はじめから、これと一つ纏つた曲 もの を初めると云ふ譯には参らず、練習にばかり時を費すので御座いますから、それを能 よ くも御忍耐なすつて皆さんが好くこそお稽古をなさることゝ思はれるほどで御座います。
それに何か何か一曲まとまつたものが済ました後でも、その次の曲をはじめるまでには、またゝ長い間、單に練習の曲を致さなければなりませんのですから、習ひはじめの方は、決して楽しみがあらう筈はありません。樂しみ所 どころ か、殆んど苦痛ばかりをお感じにならうと思はれます。
斯ういふ次第ですから、何うやら人通り仕あげやうとするのにも、第一幾分か天才がなければならず、第二には、餘程忍耐強くなければ、到底 とても 仕上がる理 わけ にはまゐりますまいと思ひます。音樂を学ぶにも、随分な精神上の犠牲が要 い るので御座います。しかも、そんなに苦労をして、どれほど上手になるかと思ひますと、たゞ一通りのことが出來ると云ふまでゞ御座いまして。-誠に音樂の修行も容易なものでは御座いません。
六 柴田環女史の半面
有隣子
飾り氣の無き女史が母堂の物語
祖母君の聲音を遺傳した環女史
天才の母と趣味の遺傳
〔蔵書目録注〕
上の文と写真は、明治四十四年一月十日発行の 婦人画報 臨時増刊 『現代名流婦人』 東京社 中の音楽界の人物についての一部抜粋である。