2026.1/1 19:52~

 どこぞで全裸になって逮捕された者がいるようだ。

 

 当然なことと流してしまいそうになるが、よく考えてみると、逮捕する必要はないのではないか。

 

 自ら無防備な状態になってくれたのだからして。

 

 もう少し想像を働かせれば、尻(ひいては直腸)に凶器を仕込んでいたり、爆弾を飲み込んでいたりといった場合を想定できないでもない。だが、恐らくだが警備員や警察もそこまで考えて逮捕に踏み切ってはいないと思う。

 

 とにかく、広い意味で右に倣わない突発的かつ不規則な行動をとった者を自動思考的にしょっ引いているだと、私は思う。

 

 そういう行動に罪という理屈が後付けされる。これは行為者だけでなく、行為者に反応する我々の行動も含まれる。認めがたいことだが、すべての罪にはある種の共犯関係が存在する。

 

 ヒトの群れにおける変わり者、はぐれ者、のけ者はそのようにして排除される。山猿の営為となんら変わるところはない。

 

 だから、私は擬態を辞められなかった。今も完全には辞めていない。しみついてしまったのだ。シャツに付いた墨汚れのように。とれることはない。

 

 なので、ときどき私は自分が何をしているのか分からなくなる。厳密にいえば、その行為者が果たして“自分”であるのかが、ひどく疑わしく思えてくる。無論それは私で、何をどう言い繕おうとも往来で衣服を脱ぎ捨てた私は、私の肉体を間違いなく晒しているのである。

 

 が、それに納得できなくなる瞬間というのが、増えてきたという話だ。

 

 自我が分裂した者は、これを逮捕する。などという法が制定されていないことを喜ぶべきか、あるいはこの歳までそのような者がのうのうと天下を闊歩できていることに危機感を覚えるべきか。だが、裁かれようにも自首すべき場所も見つからないのだ。

 

 再開して三つ目の記事で書くことでもないが、思いついた端から適当に書き込んでいるのでご容赦いただくとして、当ブログの文章は、このような私の反吐である。

 

 酔っ払いが食道を逆流する吐き気を我慢できんように、私は私の完全に壊れてしまった部分というのを何らかの形とせずにはいられないのである。

 

 読む価値もない。読まれる気もない。そういう類のものであるので、どうかご承知おきを。

 早起きができなくなった。

 

 早寝もできない。そちらの方がより重要かもしれない。

 

 21時前に寝て、5時半に起きるというような生活がほんの数年前はできていたが、だめになってしまった。

 

 加齢による老化現象であるならば、むしろ早寝早起きになる方が正道であろうと思われるので、これは違うのだろう。

 

 何かができなくなることは、それを身体が拒絶しているということだ。そこを心持ちでどうこうすることはできない。なんとなれば、心とは身体だからだ。身体の内に心があるのであって、その逆はあり得ないからだ。

 

 身体はどんどん壊れていく。瞬間を切り取ればあたかも成長しているように見えるそれも、ロングショットで観察すれば結局は生誕から死までの、つまり壊れていく過程の一部に過ぎない。

 

 だから、そう壊れてしまったことを受け入れて、それなりで別のやり方を模索するしかないのだな。

 

 そういう身体からのメッセージを無視し続ければ、まぁ結果は同じ事であれ、自壊はより悲惨なものとなる可能性が高まる。

 

 SNSに短文を投稿することもできなくなった。ブログに外向きな文章を綴ることもできなくなった。こういうことは外の世界と私とを繋げるツールとして、徹底的に非適応的で非社会的な私というものが、なんとなく人間っぽく擬態するために使ってきたが、そういうこともできなくなってしまった。

 

 私は少しだけ嘘を吐いている。

 

 本当は、やろうと思えばできるのだ。

 

 早寝はできないが、早起きはできる。そうと決められた時間が早朝であれば。

 

 投稿式ではできなくとも、チャット形式のSNSであれば、まだ外向けの私で文章を打ち込んでいる。

 

 できなくなったというより、やらなくなったといった方が、より真実に近く、誠実な態度となるだろう。

 

 要するに、アホらしくなって投げ出したのだ。

 

 過去の文章など見てみれば「なんだこれは」と思う。下らないだとか反吐が出るだとか、その手の強い後ろ向きな感情すら起こらない。間違いなく自分が書いたはずなのに、他人のそれとしか思えない。

 

 つまり私は己を完全に分裂させて、ここまでやってきてしまったのだ。

 

 それは私が私をこの人間社会の中で生きながらえさせるために、間違いなく必要なことだったので、それを否定することはしない。

 

 しかし明らかに脳や神経、あるいは精神、平たく言えば心を毒するようなやり方を続けてきて、虚空に向け「そうするしかなかったのだ」と繰り返したとしても、それはもう、身体は壊れて当然なのである。

 

 必然として壊れた身体のみが、未だ残っている。

 

 だから、もうやめてしまったのだ。

 

 そうなるようにそうしてきて、そうなったからやめるのだ。

 再出発ほど面倒なものはない。

 

 とはいえ、これまでの人生であまりにも多くの嘘を吐きすぎた人間のそれとするならば、多少以上の労力は必要経費と捉えた方がよいのだろう。

 

 ブログ再開である。

 

 また今をもって、適応的な人間として生きる努力はいったん辞めにするという宣言でもある。

 

 CIVILIANの“Declasse”という曲の歌詞に

もう何もかもすべて嫌気がさしてしまった

 とあるが、心境としてはそれに似ている。

 

 またそれとは逆方向の、なにやらを達成した感もある。

 

 妙な気分だ。

 

 このブログで、2025年以前に書かれた文章が示すように、私が普通の、一般的な、適応的認知をもった人間であるかのように振る舞えることは、もう明らかだ。

 

 そうしてきて残ったのが結局、虚しさだというのも明らかとなったので、辞めにするのだ。

 

 この記事以前の文章は、すべて私という人間から分裂した“祖父江直人”が綴った、表層的な適応で何重にも化粧をほどこしたものなので、読むには値しない。

 

 なにもかも嘘だったとまでは言わない。そこまでドラマチックな人間でもない。

 

 同時に、これから書かれる文章が読むほどの価値があるかといえば、これも皆無なので、何の問題もない。

 

 ちょっと気持ちは悪いが、すべて消すほどのこともないと思ったのでそのままにしておく。実際のところ、アカウントごと削除して別のブログサイトで書き始めようという思いも微かにあったのだが、いよいよ面倒くさすぎた。

 

 ここまでの文章を書くのに、これもまた妙に体力を使ってしまう。

 

 再開の重み。長らく使っていない、もしくは使ったこともない筋肉が軋みを上げる感覚、寝転がった状態から起き上がるおっくうさ、もしくは、その逆か。

 

 ところで本日元旦である。

 

 こんな区切りのいい日に物事を始めてしまうのもあまり気が乗らなかったが、身体がそのように動くに任せた。おかげで、「何の意味もないブログタイトルにしよう」と決めていたのに、変に“転生”感が出てしまった。

 

 昨日まで、少々おかしな具合であったのだ。

 

 何をしても死にたくなる、そういう精神状態だ。

 

 新たな仕事の打ち合わせというのか面接というのか、そういうものが飛び込んできて、まぁ仕事自体はそれなりに楽しんでやっているはずだったのだが、その日が来るのが憂鬱であった。

 

 最初に連絡を貰ってからは一日中死にたくなっていた。突発的な新たなスケジュールというのを、心身が受け止められないでいた。

 

 そして一昨日も、ちょっとした予約がスマホのアプリ上で上手くできなかったことでガクンと落ち込んだ。直接店に電話をすればことは足りそうなのだが、その前に死にたくなった。電話などしたくないからWebで予約を取ろうとしているのに、と、

 

 かように、どのような行動をとっても、ひとつ躓くと必ずそこに「死ぬ」が挟まってきていたのだ。

 

 あまりよい年末を過ごせていたとはいえない。

 

 ところが、である。

 

 昨日の夜あたりから、それが急になくなった。

 

 特に何をしたということもない。

 

 原因は分かっている。

 

 飽きたのだ。

 

 悩み苦しむことに、飽きてしまった。

 

 死にたいと思うことすら続けられない。

 

 そういう、根本的に不真面目な人間なのだ、私は。