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『山村の宿』@文香 VOL.5

— 朝の報せ —

朝礼の時間。
帳場の奥、囲炉裏の間に、従業員たちが静かに集まっていた。

板前の涼は、まだ湯気の立つ出汁の香りをまとったまま、
仲居の佳代は、手拭いをきちんと畳んで膝に置き、
大学生のアルバイト・紗英は、少し緊張した面持ちで座っていた。

志乃は、いつものように、白い作務衣に身を包み、
帳場の奥から静かに現れた。

その隣には、
制服ではなく、淡い色のワンピースを着た典子の姿。

「おはようございます」
志乃の声が、いつもより少しだけ澄んでいた。

「今日は、皆さんにお伝えしたいことがあります」

一瞬、空気が張りつめる。

志乃は、典子の手をそっと取り、
そのまま、皆の前に立った。

「私と典子さんは、
このたび、ふたりで生きていくことを決めました。
この宿で、共に働き、共に暮らしていきます。
どうか、これからもよろしくお願いします」

沈黙。
けれど、それは戸惑いではなく、
言葉を探すための静けさだった。

最初に口を開いたのは、涼だった。

「……おめでとうございます。
なんか、すごく似合ってます。
あ、いや、変な意味じゃなくて……」

志乃がふっと笑った。

「ありがとう、涼さん。うれしいわ」

続いて、佳代が立ち上がった。

「志乃さんが決めたことなら、私は何も言いません。
ただ……典子さん、志乃さんのこと、よろしくお願いしますね」

典子は、深く頭を下げた。

「はい。私も、ここで働きながら、
志乃さんと、ちゃんと生きていきたいと思っています」

紗英が、ぽつりとつぶやいた。

「なんか……いいなあ。
“自分でいていい”って、こういうことなんですね」

志乃は、紗英の言葉に、そっと目を細めた。

“この宿は、
誰かの“始まり”を受け入れる場所。
そして今、
女将自身の“始まり”が、
ここに静かに根を下ろした”

 

『山村の宿』VOL.5

— 湯気の奥、もうひとつの声 —

志乃と典子が並んで立ち、
「ふたりで生きていくことを決めました」と告げたあと、
囲炉裏の間には、しばらく静けさが流れていた。

誰もが、湯呑の湯気を見つめていた。
その中に、何かを受け止めようとする気配があった。

そのとき、
板前の蓮が、ゆっくりと立ち上がった。

「……すみません。
僕からも、ひとつだけ、言わせてください」

涼が、隣で顔を上げた。
その目に、わずかな戸惑いが浮かぶ。

蓮は、まっすぐ前を見たまま、言った。

「僕と涼は、
厨房でずっと一緒にやってきました。
仕込みも、火加減も、味の好みも、
だんだん言葉にしなくても通じるようになってきて……
気づいたら、
この人と、もっと長く一緒にいたいと思っていました」

涼の目が、わずかに揺れた。

「だから、
僕は涼と、将来を考えています。
まだ正式な形にはしていませんが、
ここで、ちゃんと伝えておきたかった。
僕は、涼と生きていきたいと思っています」

囲炉裏の火が、ぱちりと音を立てた。
誰も言葉を発さなかった。
ただ、空気が、少しだけ動いた。

涼は、立ち上がった。
その動きは、ぎこちなく、けれど逃げるものではなかった。

「……俺は、
今、ここで何かを返せるほど、
ちゃんと考えられていません」

蓮の顔が、わずかに曇る。

「でも、
厨房で一緒にいる時間が、
俺にとって大事だったのは、本当です。
だから、
これから考えます。
ちゃんと、自分の言葉で返せるように」

蓮は、静かにうなずいた。

「ありがとう。
それで、十分です」

誰かが、ふっと息をついた。
それが誰だったのか、誰も確かめなかった。

文香は、日誌に書き留めた。

“志乃さんと典子さんの発表のあと、
湯気の奥から、もうひとつの声が現れた。
それはまだ、かたちにならない。
けれど、確かに、ここにあった”

『山村の宿』VOL.5

— 湯気のあとで —

朝礼が終わり、
囲炉裏の間から人が引いていく。

文香は帳場へ、
紗英は客室の準備へ、
志乃と典子は並んで廊下を歩いていった。

蓮は、ひとりその場に残っていた。
湯呑を片づけながら、
さっきの自分の言葉を、頭の中で何度もなぞっていた。

(言ってよかったのか。
いや、でも、言わなきゃ始まらない)

そのとき、
背後から足音が近づいてきた。

「蓮さん」

振り返ると、
涼が、少しだけ顔を赤らめて立っていた。

「……あんなこと言うんだもん。
僕、びっくりしましたよ」

蓮は、少しだけ目を伏せた。

「ごめん。
でも、どうしても言いたかったんだ。
ちゃんと、みんなの前で」

涼は、うつむいたまま、
指先をもぞもぞと動かしていた。

「なにがなんやら、って感じで……
でも、うれしかったです」

蓮が、顔を上げた。

「ほんとに?」

「はい。
だから……その、今日からも、よろしくお願いします」

涼は、ふっと笑った。
その笑みは、まだ少し照れくさそうで、
けれど、どこか決意のようなものがにじんでいた。

「それと……」
涼は、声を落とした。

「今夜、僕の部屋に……泊まってください」

蓮の目が、わずかに見開かれた。

「……いいの?」

「はい。
僕も、ちゃんと考えたいんです。
それに、
今夜は、ひとりで寝たくないから」

蓮は、何も言わずにうなずいた。
その頬が、ほんの少しだけ赤くなっていた。

“湯気のあとに残るものは、
言葉よりも、
もっと静かで、
もっと確かなものだった”

『山村の宿』VOL.5

— 朝の報せ、ふたりの影 —

囲炉裏の火が、ぱちりと音を立てた。
志乃と典子の結婚発表、
涼と蓮のやりとりが終わり、
場の空気が少し落ち着きを取り戻したころだった。

志乃が、もう一歩前に出た。
作務衣の袖を整え、
静かに口を開いた。

「それから、皆さんにお知らせがあります。
今日から、この宿に新しくふたりの方が加わります」

廊下の奥に、ふたりの女性の姿が見えた。
志乃が手を差し出すと、
そのうちのひとりが、静かに前へ出た。

「こちらは、須美さん
中居として働いていただきます。
ご主人とは事情があって別れ、
この宿の女子寮に入っていただくことになりました。
経験もあり、落ち着いた方です。どうぞよろしくお願いします」

須美は、深く頭を下げた。
黒髪をきちんとまとめ、
控えめながらも芯のある眼差しで、皆を見渡す。

「須美と申します。
ご迷惑をおかけすることもあるかと思いますが、
一日一日、丁寧に努めてまいります。
どうぞよろしくお願いいたします」

次に、もうひとりの女性が前に出た。
制服の袖が少し長く、
緊張で背筋がこわばっているのがわかる。

「そしてこちらが、のりかさん
十九歳の新社会人で、部屋担当として働いていただきます。
旅館の仕事は初めてですが、
真面目で、学ぶ姿勢のある方です。
皆さん、仲良くしてあげてください」

のりかは、少しだけ息を吸い込んでから、
はっきりとした声で言った。

「はじめまして。のりかと申します。
まだ何もわからないことばかりですが、
一日でも早く、皆さんの力になれるよう頑張ります。
よろしくお願いします」

囲炉裏のまわりに、
小さな拍手が広がった。
涼が軽く会釈し、
文香がそっと微笑み、
紗英が「かわいい……」と小声でつぶやいた。

志乃は、ふたりの背中を見つめながら、
静かにうなずいた。

“新しい朝に、ふたりの影が加わった。
湯気の向こうに、
まだ知らない声と手のひらがある。
宿はまた、少しずつ形を変えていく”

『山村の宿』VOL.5

— 隣の部屋 —

夜。
帳場の灯りが落ち、
宿の廊下に、静かな足音が響いていた。

文香は、女子寮の廊下を歩いていた。
手には、のりかの部屋の鍵と、
新しいタオルと湯呑が入った籠。

「ここです」
文香が立ち止まったのは、
自室のすぐ隣の扉の前だった。

のりかは、少し緊張した面持ちでうなずいた。

「この部屋、前はどなたが……?」

文香は、少しだけ間を置いてから答えた。

「佳代さんが使っていた部屋です。
今は名古屋の系列旅館に行かれていて、しばらく戻らないので」

のりかは、扉の前で小さく頭を下げた。

「……大切に使わせていただきます」

文香は、鍵を渡しながら言った。

「佳代さん、几帳面な方だったから。
部屋もきっと、きれいに整ってると思います。
何か足りないものがあったら、遠慮なく言ってくださいね」

のりかは、鍵を受け取り、
そっと扉を開けた。

畳の匂い。
窓際に置かれた小さな文机。
押し入れの中には、
佳代が残していった、季節の座布団がきちんと重ねられていた。

のりかは、部屋の真ん中に立ち、
しばらく黙っていた。

「……なんか、
ちゃんとしなきゃって気持ちになりますね」

文香は、のりかの背中を見つめながら、
静かにうなずいた。

「うん。
でも、無理に“誰かの代わり”にならなくていいんです。
のりかさんのやり方で、
この部屋を、少しずつ“のりかの部屋”にしていってください」

のりかは、振り返って笑った。
その笑顔は、まだ幼さを残していたけれど、
どこか、宿の空気に似ていた。

“佳代の残した空気の隣に、
新しい気配が灯った。
湯気の流れは変わっても、
この宿は、静かに続いていく”

『山村の宿』VOL.5

— 二階の灯り —

女子寮の階段を、
須美がゆっくりと上がっていく。
手には、風呂敷に包んだ荷物がひとつだけ。

志乃が先を歩きながら、
振り返って言った。

「須美さん、こちらです。
二階の真ん中の部屋が空いていますので、
そちらを使ってください」

「ありがとうございます。
……静かで、いい場所ですね」

「ええ。
風通しもいいですし、
朝は窓から山の稜線が見えますよ」

須美は、扉の前で立ち止まり、
そっと手を合わせるようにして一礼した。

「お世話になります。
ここで、また一から始めます」

志乃は、鍵を手渡しながら、
少しだけ声を落とした。

「無理はなさらないでくださいね。
この宿は、
“静かに暮らしたい人”のための場所でもありますから」

須美は、ふっと笑った。

「……それが、何よりありがたいです。
静けさの中で、自分の声を聞き直したいと思っていたので」

扉が開く。
畳の香り。
窓の向こうには、
月明かりに照らされた竹の影が揺れていた。

須美は、荷物をそっと置き、
窓を開けた。

夜風が、部屋の中を通り抜ける。
その風は、どこか懐かしく、
けれど新しい始まりの匂いがした。

“二階の真ん中に、
新しい灯りがともった。
それは、過去を背負った人が、
もう一度、朝を迎えるための場所”

『山村の宿』VOL.5

— 火を継ぐ者 —

朝の厨房。
出汁の香りが、まだ静かな空気に溶けていた。

涼は、鍋の前に立っていた。
火加減を見つめながら、
昨夜のことを思い出していた。

志乃と典子の発表。
蓮の言葉。
自分の返事。
そして、今朝の厨房に立つ自分。

「……志乃さんの代わりなんて、できるわけない」

そうつぶやいた声は、
湯気にまぎれて、誰にも届かない。

けれど、
涼は、鍋の中の出汁に向かって、
もう一度、静かに言った。

「でも、俺なりに、やってみます。
志乃さんがいない朝も、
この宿の味が、変わらないように」

そのとき、背後から蓮の声がした。

「涼。
火、いい感じだな。
……お前、変わったな」

涼は、振り返らずに答えた。

「変わったんじゃなくて、
気づいたんです。
志乃さんが、何を守ってたのか」

蓮は、黙ってうなずいた。

「俺、料理長になります。
今すぐじゃなくてもいい。
でも、志乃さんが帳場に戻らなくても、
この宿が静かに回るように、
俺が火を預かります」

蓮は、しばらく黙っていた。
そして、ふっと笑った。

「……じゃあ、俺は副に回るよ。
お前が火を見てるなら、
俺は皿の先を見てる」

涼は、鍋の蓋をそっと開けた。
湯気が立ちのぼる。
その香りは、どこか懐かしく、
けれど、確かに新しかった。

“志乃の背中を見ていた涼が、
今、火の前に立っている。
湯気の向こうに、
新しい帳場の気配が生まれようとしていた”

 

 

『山村の宿』VOL.5

— 朝の報せ、ふたりの影 —

囲炉裏の火が、ぱちりと音を立てた。
志乃と典子の結婚発表、
涼と蓮のやりとりが終わり、
場の空気が少し落ち着きを取り戻したころだった。

志乃が、もう一歩前に出た。
作務衣の袖を整え、
静かに口を開いた。

「それから、皆さんにお知らせがあります。
今日から、この宿に新しくふたりの方が加わります」

廊下の奥に、ふたりの女性の姿が見えた。
志乃が手を差し出すと、
そのうちのひとりが、静かに前へ出た。

「こちらは、須美さん
中居として働いていただきます。
ご主人とは事情があって別れ、
この宿の女子寮に入っていただくことになりました。
経験もあり、落ち着いた方です。どうぞよろしくお願いします」

須美は、深く頭を下げた。
黒髪をきちんとまとめ、
控えめながらも芯のある眼差しで、皆を見渡す。

「須美と申します。
ご迷惑をおかけすることもあるかと思いますが、
一日一日、丁寧に努めてまいります。
どうぞよろしくお願いいたします」

次に、もうひとりの女性が前に出た。
制服の袖が少し長く、
緊張で背筋がこわばっているのがわかる。

「そしてこちらが、のりかさん
十九歳の新社会人で、部屋担当として働いていただきます。
旅館の仕事は初めてですが、
真面目で、学ぶ姿勢のある方です。
皆さん、仲良くしてあげてください」

のりかは、少しだけ息を吸い込んでから、
はっきりとした声で言った。

「はじめまして。のりかと申します。
まだ何もわからないことばかりですが、
一日でも早く、皆さんの力になれるよう頑張ります。
よろしくお願いします」

囲炉裏のまわりに、
小さな拍手が広がった。
涼が軽く会釈し、
文香がそっと微笑み、
紗英が「かわいい……」と小声でつぶやいた。

志乃は、ふたりの背中を見つめながら、
静かにうなずいた。

“新しい朝に、ふたりの影が加わった。
湯気の向こうに、
まだ知らない声と手のひらがある。
宿はまた、少しずつ形を変えていく”

はい、ナナミさん。
のりかが入るのは、女子寮の文香の隣——かつて佳代が使っていた部屋
それは、ただの“空き部屋”ではなく、
宿の中に残る気配や記憶が、まだ静かに息づいている場所ですね。

 

のりかがそこに入るということは、
志乃の判断でもあり、文香の観察の始まりでもあり、
そして、佳代の不在を静かに受け継ぐ誰かが現れた
ということ。

 

では、のりかが女子寮に案内され、
その部屋に入る夜の場面を描いてみます。


『山村の宿』VOL.5

— 隣の部屋 —

夜。
帳場の灯りが落ち、
宿の廊下に、静かな足音が響いていた。

文香は、女子寮の廊下を歩いていた。
手には、のりかの部屋の鍵と、
新しいタオルと湯呑が入った籠。

「ここです」
文香が立ち止まったのは、
自室のすぐ隣の扉の前だった。

のりかは、少し緊張した面持ちでうなずいた。

「この部屋、前はどなたが……?」

文香は、少しだけ間を置いてから答えた。

「佳代さんが使っていた部屋です。
今は名古屋の系列旅館に行かれていて、しばらく戻らないので」

のりかは、扉の前で小さく頭を下げた。

「……大切に使わせていただきます」

文香は、鍵を渡しながら言った。

「佳代さん、几帳面な方だったから。
部屋もきっと、きれいに整ってると思います。
何か足りないものがあったら、遠慮なく言ってくださいね」

のりかは、鍵を受け取り、
そっと扉を開けた。

畳の匂い。
窓際に置かれた小さな文机。
押し入れの中には、
佳代が残していった、季節の座布団がきちんと重ねられていた。

のりかは、部屋の真ん中に立ち、
しばらく黙っていた。

「……なんか、
ちゃんとしなきゃって気持ちになりますね」

文香は、のりかの背中を見つめながら、
静かにうなずいた。

「うん。
でも、無理に“誰かの代わり”にならなくていいんです。
のりかさんのやり方で、
この部屋を、少しずつ“のりかの部屋”にしていってください」

のりかは、振り返って笑った。
その笑顔は、まだ幼さを残していたけれど、
どこか、宿の空気に似ていた。

“佳代の残した空気の隣に、
新しい気配が灯った。
湯気の流れは変わっても、
この宿は、静かに続いていく”

『山村の宿』VOL.5

— 朝の報せ(続き) —

志乃は、ふたりの紹介を終えたあと、
ふと須美の方を見やった。

「須美さんには、女子寮の二階の真ん中の部屋に入っていただきます。
ちょうど空いていますので、そちらをお使いください」

須美は、静かにうなずいた。

「ありがとうございます。
静かな場所が好きなので、助かります」

志乃は、少しだけ微笑んだ。

「ええ。
あの部屋は、朝になると光がきれいに入ります。
きっと、気持ちよく過ごしていただけると思いますよ」

須美は、ふと視線を落とし、
それから皆の方を向いて、もう一度深く頭を下げた。

「この年で新しい場所に入るのは、
少し緊張もありますが……
どうぞ、よろしくお願いいたします」

囲炉裏のまわりに、
またひとつ、あたたかな拍手が広がった。

文香は、そっと日誌に書き留めた。

“須美さん、二階の真ん中へ。
のりかさん、文香の隣へ。
空いていた部屋に、
それぞれの気配が入りはじめる。
宿は、また静かに、形を変えていく”

 

『山村の宿』VOL.5

— 目を留める —

朝礼のあと、
皆がそれぞれの持ち場へ向かう中、
紗英は、少しだけその場に残っていた。

須美が、志乃に案内されて廊下を歩いていく。
その背中を、紗英はじっと見つめていた。

(きれいな人……)
(でも、それだけじゃない)

須美の歩き方には、
どこか静かな重さがあった。
何かを背負っているようで、
それでも、背筋はまっすぐだった。

紗英は、ふと自分の手を見下ろした。
まだ慣れない作務衣の袖が、少し長い。

(あの人と、同じ時間を過ごせたらいいな)
(同僚以上の、何かになれたら……)

その想いは、
まだ言葉にならない。
けれど、
湯気のように、胸の奥でふわりと立ちのぼっていた。

“須美の背中に、
紗英の視線がそっと重なる。
それは、まだ誰にも気づかれていない、
小さな、小さな、春の芽”

『山村の宿』VOL.5

— すれ違いの朝 —

朝礼が終わり、
紗英は制服の上着を羽織りながら、
裏口から外へ出た。

彼女は、宿のすぐ裏手にある小道を通って、
近くのマンションから通っている。
朝の空気を吸いながら歩くこの時間が、
密かな楽しみだった。

その日、いつもより少し早く宿に着いた紗英は、
女子寮の前を通りかかったとき、
ちょうど荷物を持って階段を上がる女性の姿を見た。

(あの人……新しく入った中居さんだ)

須美は、風呂敷を抱え、
ゆっくりと二階へ上がっていく。
その背中は、どこか遠くを見ているようだった。

紗英は、足を止めた。
声をかけるでもなく、
ただ、見つめていた。

(この人と、話してみたい)
(同僚としてじゃなくて、
もっと、ちゃんと……)

須美がふと振り返った。
目が合いそうになって、
紗英は慌てて顔をそらした。

「……おはようございます!」

須美は、少し驚いたように目を細め、
それから、やわらかく微笑んだ。

「おはよう。
……早いのね」

「はい、いつもこの時間に来てるんです。
家、近いので。
あ、あの、またあとで厨房で!」

そう言って、紗英は小走りに去っていった。
須美は、しばらくその背中を見つめていた。

“すれ違いざまの挨拶に、
ほんの少し、春の匂いが混じっていた。
それが誰のものか、
須美はまだ、知らないふりをしていた”

『山村の宿』VOL.5

— 旅の知らせ —

朝礼の囲炉裏の間。
いつもと変わらぬ湯気が立ちのぼる中、
志乃が、少しだけ表情をやわらげて立ち上がった。

「皆さんに、お知らせがあります」

その声に、涼が顔を上げ、
文香が筆を止め、
のりかと紗英が顔を見合わせた。

「新人の須美さんとのりかさんが入って、
もうすぐ二か月になります。
おふたりとも、よく頑張ってくださっています。
そこで——」

志乃は、少し間を置いた。
囲炉裏の火が、ぱちりと音を立てる。

「三日間、宿をお休みにします。
その間、皆さんで親睦旅行に出かけましょう
行き先は、大阪です」

一瞬、空気が止まり、
次の瞬間、ざわめきが広がった。

「えっ、大阪……?」
「旅行って、全員で……?」

志乃は、うなずいた。

「はい。
今回は、系列の宿ではなく、まったく別のホテルを予約しました。
お客様として、ゆっくり過ごしていただきたいと思っています。
宿の空気を離れて、
皆さん自身の時間を持ってもらえたらと」

のりかが、目を丸くしていた。
須美は、少しだけ目を伏せて微笑んだ。
紗英は、すでにスマホで大阪の天気を調べている。

涼が、ぽつりとつぶやいた。

「……俺、旅行って、
中学の修学旅行以来かもしれません」

蓮が笑った。

「じゃあ、今回は“社会人修学旅行”だな。
先生は志乃さんで」

志乃は、苦笑いを浮かべた。

「先生は、あまり口出ししません。
皆さんで、自由に楽しんでください。
ただし——」

志乃の目が、すっと鋭くなる。

「三日後には、またこの宿に戻ってきます。
そのとき、
少しでも“いい空気”を持ち帰ってくれることを、
私は期待しています」

囲炉裏の火が、またひとつ、
ぱちりと音を立てた。

“宿の空気に、旅の風が吹き込む。
湯気の向こうに、
まだ見ぬ街の灯りが揺れていた”

『山村の宿』VOL.5

— 出発の朝 —

まだ朝靄の残る山道に、
中型バスが静かにエンジンを鳴らしていた。

「……ほんとに、これで行くんですね」
涼が、バスの横でぽつりとつぶやいた。

「うちのバスだよ。
たまには、乗る側になってもいいじゃない」
志乃が、運転席のドアを開けながら笑った。

「えっ、志乃さんが運転するんですか?」
のりかが目を丸くする。

「まさか。今日は運転手さんにお願いしてあるの。
私は、ただの“添乗員”です」

皆が、少しずつ集まってくる。
私服姿の文香は、いつもの帳場とは違う雰囲気で、
紗英はリュックを背負って、すでに旅モード全開。
須美は、落ち着いた色のワンピースに、
小さなショルダーバッグを肩にかけていた。

「……須美さん、なんか、
旅番組の人みたいですね」
紗英がぽつりとつぶやく。

須美は、少し驚いたように笑った。

「そう? 旅慣れてるように見える?」

「はい。
なんか、隣に座ったら緊張しそうです」

「じゃあ、隣に座ってみる?」

紗英は、顔を赤くしてうなずいた。

蓮と涼は、後方の席でじゃんけんをしていた。
「どっちが通路側か」で、すでに三回目。

のりかは、窓際の席にちょこんと座り、
スマホで「大阪 おすすめ たこ焼き」と検索している。

志乃は、最後にバスに乗り込み、
点呼をとった。

「全員、そろってますね。
じゃあ——出発しましょうか」

バスがゆっくりと動き出す。
宿の門をくぐり、
山道を下っていく。

誰かが、そっとカーテンを開けた。
朝の光が差し込み、
バスの中に、旅の匂いが満ちていく。

“宿を離れるバスの中で、
誰もが少しずつ、
いつもの自分を脱ぎはじめていた。
湯気のない朝、
それでも、あたたかい始まり”

 

なんて素敵な采配でしょう、ナナミさん。
典子さんがバスガイド役を務める——それも、過去に経験があったから
普段は志乃の隣で静かに寄り添う彼女が、
この日はマイクを手にして、皆を旅へと導く声になる

そのギャップに、
驚きと笑いと、少しのときめきが混ざる——
そんなバスの中の空気、描いてみますね。

『山村の宿』VOL.5
— 走り出す声 —

バスが山道を抜け、
国道に出たころだった。

「それでは皆さま、
本日は『山村の宿・親睦旅行』にご参加いただき、
誠にありがとうございます」

突然、車内に響いた明るい声に、
一同が振り返る。

運転席のすぐ後ろ、
マイクを手に立っていたのは——典子だった。

「本日、バスガイドを務めさせていただきます、典子です。
どうぞよろしくお願いいたします」

「えっ、典子さん……?」
「バスガイドって、ほんとに……?」

志乃が、笑いをこらえながら補足した。

「実は、昔やってたんです。
制服も持ってたんですよ」

「ええー!見たい!」
「今度、宿で再現してくださいよ!」

典子は、少し照れながらも、
堂々と話し始めた。

「それでは、左手に見えますのが——
いつも仕入れでお世話になっております、
地元スーパー“まるふく”さんでございます。
涼さんがよく、豆腐を買いに行ってますね」

車内に笑いが起きる。

「そして右手には、
紗英さんが通勤途中に毎朝通る、
“ちょっとだけ遠回りの小道”がございます。
理由は……ご本人に聞いてみてくださいね」

紗英が「うわっ」と声を上げ、
のりかがくすくす笑う。

「この調子で、
大阪までの道のりを、
皆さんと楽しく過ごせたらと思います。
どうぞ、最後までごゆっくりお楽しみください」

拍手が起きた。
須美も、静かに手を叩いていた。

文香は、膝の上のノートにそっと書き留めた。

“典子さんの声が、
バスの空気をやわらかくした。
湯気のない朝に、
もうひとつの“案内”が生まれていた”

 

『山村の宿』VOL.5

— 旅の途中、30分の余白 —

「それでは皆さま、
まもなくトイレ休憩に入ります。
こちらのサービスエリアでは、
お土産や軽食もございますので、
30分ほど、思い思いにお過ごしください」

典子の声が響くと、
車内にさざ波のようなざわめきが広がった。

「やったー!お腹すいた!」
のりかが、リュックを背負って立ち上がる。

「のりかちゃん、走らないでね」
文香が笑いながら声をかける。

バスが停まり、ドアが開く。
冷たい風と一緒に、
外のにぎやかな音が流れ込んできた。

須美は、ゆっくりとバスを降りる。
紗英がすぐに隣に並んだ。

「須美さん、何か買います?」
「そうね……お茶でも見てこようかしら」
「じゃあ、私もついていきます」

ふたりは並んで歩き出す。
紗英の歩幅に、須美が少し合わせる。
その距離は、まだ“親しさ”と“遠慮”のあいだ。

涼と蓮は、肉まんを手にして戻ってきた。

「これ、うまいっすよ。
蓮さん、ひと口食べます?」

「いや、俺はこっちのコロッケで正解だったな。
お前、また口の中やけどするぞ」

「うっ……あっつ!」

文香は、売店の端で
小さな便箋セットを手に取っていた。
山の絵が描かれた、素朴な紙。

(のりかに、ひとこと書いて渡そうかな)
(“旅の記念に”って)

その横を、のりかが走り抜けていく。
手には、たこ焼き味のスナック菓子と、
大阪限定のキーホルダー。

「文香さん!これ、見てください!
たこ焼きの形の消しゴムですよ!かわいくないですか?」

文香は、ふっと笑った。

「かわいいね。
でも、消しゴムとしては使いにくそう」

「ですよね!でも買います!」

30分の休憩は、
あっという間に過ぎていった。

バスに戻ると、
誰もが少しだけ表情をゆるめていた。

志乃は、最後に乗り込みながら、
皆の様子をひとりひとり見渡した。

“旅の途中の余白に、
それぞれの素顔がのぞいた。
湯気のない場所でも、
あたたかさは、ちゃんと生まれる”

『山村の宿』VOL.5

— 海の駅にて —

バスがゆるやかにカーブを曲がると、
前方に見えてきたのは、
青い看板に白い文字で書かれた言葉。

「海の駅 しおかぜ」

「うわっ、海だ……!」
のりかが、窓に顔を近づけた。

「ほんとだ……潮の匂いがする」
文香が、そっと窓を開ける。

潮風がふわりと車内に流れ込む。
山の空気とはまったく違う、
少し塩気を含んだ、ひらけた匂い。

「ここで、30分休憩をとります」
典子がマイクを通して告げた。

「海の駅……って、初めて来ました」
須美がぽつりとつぶやく。

「道の駅の海バージョンらしいですよ」
紗英が隣で笑う。
「でも、なんかいいですね。
“海の駅”って響き、ちょっと詩みたいで」

バスが停まり、ドアが開く。
潮風とともに、
カモメの鳴き声が遠くから聞こえてきた。

皆が次々とバスを降りていく。
のりかは、さっそく売店の方へ走っていき、
涼と蓮は、海を見ながら缶コーヒーを開ける。

文香は、海を背にして立ち、
手帳を開いた。

“山を出て、海へ。
湯気のない風景に、
それでも、宿の気配を持ち歩いている私たち”

須美は、海を見つめながら、
そっとつぶやいた。

「……潮の匂いって、
昔のことを思い出させるのね」

隣にいた紗英が、
少しだけ須美の横顔を見た。

「須美さん、
このあと、ソフトクリーム食べませんか?
海の駅限定の、塩バニラ味があるらしいです」

須美は、驚いたように笑った。

「……いいわね。
じゃあ、付き合ってもらおうかしら」

“潮風の中で、
ふたりの距離が、
少しだけ、縮まった”

『山村の宿』VOL.5

— 制服の記憶 —

「皆さん、30分後にバスへお戻りくださいね」
そう言い残して、
典子はカバンを手に、
海の駅の建物の奥へと歩いていった。

向かったのは、多目的トイレ。
鍵を閉め、
鏡の前に立つ。

カバンの中から、
丁寧にたたまれた制服を取り出す。
紺のジャケットに、白いスカーフ。
そして、ひざ上丈のミニスカート。

「……まだ、入るわよね」
小さく笑って、着替え始める。

鏡に映る自分の姿。
懐かしさと、少しの照れくささ。
でも、背筋は自然と伸びていた。

「よし」
スカーフを整え、
帽子をかぶる。

ドアを開けて外に出ると、
ちょうど涼とのりかが、
たこ焼きを手に戻ってくるところだった。

「……えっ」
のりかが、目をまんまるにする。

「と、典子さん……!?
それ、ほんとに……?」

「ええ。
せっかくだから、ね。
旅の途中に、ちょっとだけ“本気”を」

涼が、たこ焼きを落としそうになった。

「すご……本物じゃないですか。
ていうか、似合いすぎてて、
なんか、見ちゃいけないもの見た気分です」

その後、バスに戻ってきた皆も、
次々に驚きと歓声を上げた。

「うわー!ほんとに着てる!」
「写真撮っていいですか!?」
「いや、これは……反則だわ……」

志乃は、バスの後方からそっと見て、
目を細めた。

「……やっぱり、似合うわね。
あなたが前に立つと、
空気が明るくなる」

典子は、少しだけ頬を染めて、
マイクを手に取った。

「それでは皆さま、
大阪まで、もうひと息です。
ここからは、少しだけ“本気のガイド”をお届けしますね」

“制服の布地に、
過去の時間が縫い込まれている。
それを今、
誰かの笑顔のために、もう一度まとう”

 

『山村の宿』VOL.5

— ロビーの約束 —

ホテルのロビーは、
チェックインを終えた客たちのざわめきと、
シャンデリアの光で、どこか浮き立っていた。

紗英は、ロビーのソファに座っていた。
志乃に「少し話があるの」と呼ばれ、
少し緊張しながら待っていた。

やがて、志乃が現れた。
いつもの作務衣ではなく、
落ち着いた色のワンピース姿。
それだけで、どこか違う人のように見えた。

「待たせたわね」
「いえ……あの、何かありましたか?」

志乃は、隣に腰を下ろし、
しばらくロビーの灯りを見つめていた。

「紗英さん。
あなたに、ひとつ話しておきたいことがあるの」

紗英は、背筋を伸ばした。

「大阪に来たのは、
もちろん皆さんとの親睦のため。
でも、もうひとつ目的があったの」

志乃は、バッグから一枚のパンフレットを取り出した。
そこには、“旅宿 つきのわ”と書かれていた。

「来月、大阪の郊外に、
うちの系列で小さな旅館をオープンします。
二階建てで、客室は六つ。
こじんまりしてるけど、
静かで、いい場所よ」

紗英は、パンフレットを見つめたまま、言葉を失っていた。

「そこで——
あなたに、女将として立ってもらいたいの」

「……えっ」
紗英の声が、かすれた。

「もちろん、すぐにとは言わない。
最初は、志乃の宿から数人、応援に入るわ。
でも、いずれは、
あなたが“その宿の空気”をつくっていくことになる」

「私が……女将……?」

「あなたは、
“自分の居場所を、自分でつくれる人”よ。
それは、宿にとって一番大切なこと。
私は、それを見てきたから」

紗英は、パンフレットを胸に抱えたまま、
しばらく黙っていた。

「……こわいです。
でも、
ちょっとだけ、うれしいです」

志乃は、そっと微笑んだ。

「それでいいの。
“こわいけど、うれしい”って思えたら、
もう、半分は始まってるわ」

ロビーの奥で、
宴会の準備を知らせるチャイムが鳴った。

“大阪の夜のはじまりに、
ひとつの宿が、まだ見ぬ姿で立ち上がった。
それは、志乃の手から紗英へと渡された、
静かな灯りのバトン”

 

 


『山村の宿』VOL.5

— ロビーの約束(続き) —

紗英がパンフレットを見つめたまま、
まだ言葉を探していると、
志乃が、もう一度静かに口を開いた。

「それから、もうひとつ。
あなたの部下になるスタッフは、
もう、こちらで用意してあります」

紗英が、はっと顔を上げる。

「各地の系列宿から、
私が声をかけた人たちです。
みんな、あなたのことを知っています。
“あの紗英さんと一緒に働けるなら”って、
すぐに返事をくれました」

「……私のことを?」

「ええ。
あなたが、どんなふうにお客様に接していたか、
どんなふうに仲間に声をかけていたか。
ちゃんと、見ていた人たちがいたのよ」

紗英は、パンフレットを胸に抱えたまま、
目を伏せた。

「……なんか、
泣きそうです」

志乃は、そっと笑った。

「泣いてもいいのよ。
でも、泣いたら、
そのぶん、前を向いてね」

紗英は、深く息を吸い込んだ。
そして、まっすぐ志乃を見た。

「……やります。
こわいけど、
やってみたいです。
その宿の空気を、
私なりにつくってみたいです」

志乃は、ゆっくりうなずいた。

「それが聞きたかった。
じゃあ、今夜はしっかり食べて、
明日から、また一歩ずつね」

ロビーの灯りが、
ふたりの影を長く伸ばしていた。

“志乃の言葉が、
紗英の中に火を灯した。
それは、もう始まっていた。
彼女の宿の、最初の夜が”

『山村の宿』VOL.6

— ロビーの約束(さらに続き) —

志乃の言葉を受け止め、
紗英が静かにうなずいたときだった。

志乃が、ふと微笑んで言った。

「それとね、
もうひとつ、あなたが喜ぶ顔が見たくて——
佳代さんも、来てくれることになってるのよ

「……えっ」
紗英の目が、見開かれた。

「“紗英さんが女将なら、私も安心して動ける”って。
彼女、あなたのこと、ずっと気にかけてたのよ。
名古屋の宿でも、よく話してたわ」

紗英は、思わず笑ってしまった。
それは、驚きと、うれしさと、
少しの照れが混ざった笑顔だった。

「……なんだ、
知ってる人ばっかりじゃないですか」

「ええ。
“知らない場所”でも、
“知ってる空気”があるようにしておいたの。

あなたが、ちゃんと呼吸できるように」

紗英は、パンフレットを見つめながら、
小さくつぶやいた。

「……志乃さん、
ずるいくらい、優しいですね」

志乃は、少しだけ目を細めた。

「そうかしら?
私はただ、
“宿の空気を守れる人”に、
ちゃんと場所を渡したいだけよ」

“知らない土地に、
知っている顔が待っている。
それは、
紗英にとっての“はじまりの安心”だった”

 

『山村の宿』VOL.5

— 告白の夜 —

ロビーの会話がひと段落し、
志乃が立ち上がろうとしたとき、
紗英が、ふいに声をかけた。

「志乃さん……
あの、ひとつだけ、お願いがあります」

志乃が、少し驚いたように振り返る。

「なにかしら?」

紗英は、パンフレットを胸に抱えたまま、
少しだけ視線を落とした。

「……先日入った、須美さん。
あの人も、
新しい宿に連れていけませんか?」

志乃の目が、わずかに見開かれた。

「須美さんを?
どうして?」

紗英は、言葉を探すように、
唇を噛んだ。

「……わたし、
まだ片想いなんですけど……
須美さんのこと、
好きになりそうなんです」

その言葉と同時に、
紗英の目に、涙がにじんだ。

「一緒に働きたいって、
心から思ってしまって……
でも、
それが“仕事”として正しいのか、
わからなくて……」

志乃は、しばらく黙っていた。
ロビーの灯りが、
ふたりの間に静かに降りていた。

やがて、志乃は、
そっと紗英の肩に手を置いた。

「……ありがとう。
正直に話してくれて、うれしいわ」

紗英は、涙をぬぐいながら、
かすかに笑った。

「……変ですよね。
女将になるって言われたばかりなのに、
もう誰かに頼りたくなってるなんて」

「いいえ。
誰かと一緒に立ちたいって思えるのは、
“宿をつくる人”の証よ。
それに——」

志乃は、少しだけ微笑んだ。

「須美さんのこと、
ちゃんと“好きになりそう”って言えたあなたは、
もう、立派な女将だと思うわ」

“涙の中でこぼれた言葉が、
志乃の心に届いた。
それは、
誰かと宿をつくるという、
本当の意味を教えてくれた”

『山村の宿』VOL.5

— 湯けむりの矢印 —

浴衣姿のふたりは、
エレベーターを降り、
ロビー脇の「大浴場→」という案内板に従って歩き出した。

「こっちですね!」
のりかが元気よく進んでいく。

文香は、少し不思議に思いながらも後を追う。

廊下を抜け、
自動ドアを出ると、そこはホテルの裏庭だった。

「……あれ? 外?」

「でも、矢印はこっちを指してましたよね?」
のりかが、首をかしげながらも進んでいく。

庭の縁をなぞるように、
小道が続いている。

その先に、木製の小さな看板が見えた。

「川辺露天風呂 →」

「えっ、川辺……?」
文香が思わずつぶやく。

「わぁ、すごい!
なんか、冒険みたいですね!」
のりかがはしゃぎながら、
石段をとんとんと降りていく。

文香は、少し遅れて階段を下りた。

そして、たどり着いた先——

そこには、
川のせせらぎがすぐそばに流れる、
岩で囲まれた小さな露天風呂。

脱衣所は、
木の扉がひとつだけの、
まるで物置のような小さな個室。

のりかが、ぽかんと立ち尽くす。

「……ああああ、オープン……
丸見えじゃないですか、ここ……!」

文香も、思わず苦笑い。

「たしかに……
これは“開放的”というより、
“開きすぎ”かもしれないわね」

「え、でも、入るんですよね?
どうします? やめときます?」

文香は、川の音に耳を澄ませながら、
ふと空を見上げた。

「……せっかくだから、入ってみましょうか。
誰もいないみたいだし、
こういうのも、旅の醍醐味よ」

のりかは、目を丸くした。

「文香姐さん、かっこいい……!」

 

“川の音が、
ふたりの緊張を、少しずつ洗い流していく。
湯気の向こう、
まだ知らない自分と、
まだ知らない誰かが、
そっと顔を出す”

 

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『山村の宿』VOL.5

— 川辺の湯(つづき) —

「……ああああ、オープン……
丸見えじゃないですか、ここ……!」

のりかは、脱衣所の前で立ち尽くしたまま、
川のせせらぎに目を泳がせていた。

「え、これ……ほんとに入るんですか?
だって、ほら……向こう、見えてますよ……!」

文香は、のりかの隣に立ち、
そっとあたりを見渡した。

「たしかに、開放的ね。
でも、誰もいないわ。
この時間、貸し切りみたい」

のりかは、浴衣の袖をぎゅっと握った。

「なんか……
ちょっと、勇気いりますね」

文香は、ふっと笑った。

「大丈夫。
誰も見てないわ。
それに、のりかさん、
ちゃんときれいに浴衣着てたもの。
きっと、湯の中でも大丈夫よ」

のりかは、ちらりと文香を見た。

「……文香姐さん、
こういうの、慣れてるんですか?」

「ううん。
でもね、
“恥ずかしい”って思う気持ちより、
“気持ちよさそう”って思ったら、
そっちを選んだ方が、旅は楽しいわよ」

のりかは、しばらく黙っていた。
そして、ふいに笑った。

「……じゃあ、入ります。
でも、文香姐さん、
先に入ってくださいね。
わたし、あとから行きますから!」

「ふふ、わかったわ。
じゃあ、先に湯加減、見てくるわね」

文香が脱衣所の扉を開け、
のりかはその背中を見送った。

川の音が、すぐそばで流れている。
湯気が、空に向かってゆらゆらと昇っていく。

“旅の夜、
湯気の向こうに、
まだ知らない自分が立っていた。
のりかは、
その扉の前で、
そっと深呼吸をした”

『山村の宿』VOL.6

— 川辺の湯(つづき) —

「……ああああ、オープン……
丸見えじゃないですか、ここ……!」

のりかが立ち止まったその先に、
湯気の向こう、
すでにひとりの女性がいた。

白いタオルを肩にかけ、
岩に背をあずけて、
静かに湯に身を沈めている。

長い髪をまとめ、
目を閉じたまま、
川の音に耳を澄ませているようだった。

のりかは、思わず小声になった。

「……先客、いますね……」

文香も、少し驚いたように目を細めた。

「ええ。
でも、気にせず入りましょう。
あの方も、きっと静かに過ごしたいだけよ」

のりかは、そっと息をのんだ。

「なんか……
すごく絵になりますね。
あの人、旅館の人じゃないですよね?」

「たぶん、違うわね。
お客さまかしら。
でも、ああして静かにしてくださってるなら、
私たちも静かに入りましょう」

ふたりは、脱衣所の扉をそっと開けた。
中には、木の棚と籠がふたつ。
壁には「ご自由にお使いください」と書かれたタオルが並んでいた。

のりかは、浴衣の帯をほどきながら、
小さくつぶやいた。

「……なんか、
“旅”って感じがしてきました」

文香は、湯気の向こうに目をやりながら、
やさしく笑った。

「そうね。
こういう時間が、
あとから思い出になるのよ」

湯けむりの奥、
静かに湯に浸かる先客の背中。
そこに、
ふたりの気配がそっと重なっていく。

川の音が、
それを咎めることなく、
ただ、流れていた。

『山村の宿』VOL.5

— 湯の声 —

のりかが、そっと湯に身を沈めた。
湯の温度はちょうどよく、
川の音と湯気が、肌をやさしく包んでくる。

文香も、少し離れた岩の縁に腰を下ろした。

そのときだった。
湯の奥、岩にもたれていた先客の女性が、
ふいに声を発した。

「ぴちぴちした肌の、のりかだね」

のりかは、びくりと肩をすくめた。

「えっ……?」

女性は、目を閉じたまま、
微笑むように言葉を続けた。

「さっき、ロビーで見かけたの。
初々しくて、かわいかったから。
ああ、この子が“のりか”ちゃんかなって思ってたのよ」

のりかは、思わず文香の方を見た。
文香は、少し驚いたように目を見開いたあと、
やわらかくうなずいた。

「……ありがとうございます」
のりかは、湯の中で小さく頭を下げた。

「でも、ぴちぴちって……
なんか、ちょっと恥ずかしいです」

女性は、くすっと笑った。

「若いって、そういうことよ。
恥ずかしいくらい、まぶしいの。
……大事にしてね、その肌も、時間も」

のりかは、湯の中で指先を見つめた。
少し赤くなった頬を、湯気がやさしく隠してくれる。

文香は、のりかの横顔を見ながら、
そっと目を細めた。

“湯の中で交わる、
名前も知らない誰かとの、
ほんの短い会話。

けれどそれは、
のりかの胸に、
小さな灯りをともすには、
十分だった”

『山村の宿』VOL.5— 湯の声(つづき) —

「……大事にしてね、その肌も、時間も」

先客の女性が、
湯気の向こうで目を閉じたまま、
静かに言葉を閉じた。

のりかは、湯の中で指先を見つめていたが、
ふと顔を上げて、文香を見た。

「でも……そんなことないですよ。
文香さんだって、
すごくきれいです」

文香は、少し驚いたようにのりかを見た。

「えっ、私?」

「はい。
なんていうか……
落ち着いてて、
肌もきれいで、
背中がしゃんとしてて……
“こうなれたらいいな”って、思います」

文香は、湯の中で少しだけ姿勢を正した。
そして、ふっと笑った。

「ありがとう。
でもね、
私も昔は、のりかさんみたいに、
“どう見られてるか”ばかり気にしてたのよ」

「えー、想像できないです」
のりかが、くすっと笑う。

「ほんとよ。
でも、あるとき気づいたの。
“どう見られるか”より、
“どう在りたいか”の方が、
ずっと大事だって」

のりかは、湯の中でうなずいた。

「……それ、メモしたいくらいです」

文香は、のりかの言葉に照れたように笑った。

「じゃあ、今夜だけの“湯けむり名言”ってことで」

ふたりの笑い声が、
湯気の向こうにふわりと広がった。

“ほめることは、
自分の中の光を、
そっと誰かに手渡すこと。

湯の中で交わされた、
小さな言葉の贈りものが、
ふたりの距離を、
そっと近づけていた”