夫・敏との関係に疲れ、心の居場所を求めて山間の宿を訪れた典子。

女将・志乃との出会いは、静かであたたかな時間をもたらし、

ふたりの間には、言葉にならない想いが少しずつ芽生えていく。

一夜を共に過ごしたあと、典子は再び日常へ戻るが、

その心には、もう元には戻れない何かが芽生えていた


『山村の宿』VOL.2——静けさのあとで

山道を下る車の中、ラジオからは天気予報が流れていた。
「明日は晴れ。気温はこの時期としては高めで…」
運転席の夫は、無言でハンドルを握っている。
助手席の典子もまた、言葉を失っていた。

けれど、心の中では、何度も同じ言葉が渦を巻いていた。

(このまま帰ったら、私はまた、何もなかったふりをしてしまう)

ふと、前方に「道の駅」の看板が見えた。
典子は、意を決して口を開いた。

「ねえ、ちょっと寄ってくれる?」

夫は無言でウインカーを出し、車を駐車スペースに滑り込ませた。

エンジンを切ったあとも、しばらく沈黙が続いた。
典子は、シートベルトを外し、夫の横顔を見つめた。

「…あなた、一人で帰って」

夫は、驚いたようにこちらを見た。

「え? どういうこと?」

典子は、少しだけ笑った。
けれど、それはどこか寂しさを含んだ笑みだった。

「わたし、もう一泊していくわ。
ごめんね。…でも、そうしたいの」

夫は、言葉を失ったまま、ただ典子を見つめていた。
その目には、怒りでも悲しみでもなく、ただ「理解できない」という戸惑いが浮かんでいた。

「…明日、仕事だよ。君も…」

「うん、わかってる。でも、今は…帰れないの」

典子はそう言って、ドアを開けた。
冷たい空気が車内に流れ込む。

立ち上がり、後部座席から小さなバッグを取り出す。
そして、夫の方を振り返ることなく、山道の方へと歩き出した。

夫は、しばらくその背中を見送っていた。
何が起きたのか、どうしてそうなったのか——
答えはどこにもなかった。

けれど、彼にはもう、どうすることもできなかった。
明日は仕事。
そして、彼女はもう、戻ってこないかもしれない。


『山村の宿』VOL.2

— 敏の帰路、そして一本の電話 —

車のエンジン音だけが、山道に響いていた。
助手席は空っぽ。
そこにいたはずの典子のぬくもりが、まだ残っている気がして、敏は何度も視線をそちらに向けた。

(なんなんだよ、いったい…)

怒りではなかった。
ただ、理解できない。
あの穏やかで、控えめで、いつも自分の一歩後ろを歩いていた妻が、
なぜ突然、あんなふうに言い出したのか。

「わたし、もう一泊していくわ」

その言葉が、何度も頭の中で反響する。

(まさか、誰か…?)

そんな考えがよぎるたびに、胸の奥がざわついた。
けれど、問いただすことはできなかった。
あのときの典子の目を見て、何も言えなくなった。

(あいつ、泣いてなかったな。…でも、何かが変わってた)

高速道路に乗る頃には、日もすっかり傾いていた。
助手席に置かれた水のペットボトルが、カラカラと転がる。

家に着いたのは、夜の8時を過ぎた頃だった。
玄関の鍵を開け、靴を脱ぎ、リビングのソファに沈み込む。

テレビをつけても、音が耳に入ってこない。
スマホを手に取り、しばらく画面を見つめる。

(あの宿の名前…なんだっけ)

検索履歴をたどる。
「山村の宿」——それだ。

敏は、ためらいながらも、電話番号を押した。
コール音が数回鳴ったあと、静かな声が応えた。

「はい、山村の宿でございます」

その声に、敏は一瞬、言葉を失った。
落ち着いていて、どこか深く、そして…どこか、典子と似ていた。

「…あの、すみません。今朝、そちらに泊まっていた者の夫です。
典子という者が、そちらに…戻っていませんか?」

受話器の向こう、女将・志乃は一瞬、沈黙した。
そして、静かに答えた。

「はい。奥様は、今夜もう一泊されるとおっしゃって、戻ってこられました」

敏は、目を閉じた。
やはり、そうか。

「…そうですか。あの、特に何か…変わった様子は?」

志乃は、少しだけ間を置いてから、言った。

「とても、静かにされていました。
でも、どこか…ご自分の足で立っている、そんな印象を受けました」

敏は、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりとつぶやいた。

「そうですか…。ありがとうございました」

「どうか、今夜はゆっくりお休みくださいませ。
奥様は、きっと…ご自身の時間を、大切にされているのだと思います」

「……はい」

通話を終えたあと、敏はスマホをテーブルに置き、天井を見上げた。

(俺は、あいつのこと…何も知らなかったのかもしれない)

静かな部屋に、時計の針の音だけが響いていた。


電話を切ったあと、敏はしばらくその場に立ち尽くしていた。

部屋の明かりはついているのに、どこか暗く感じた。

テーブルの上には、開封されていない夕食の弁当。
その横に、仕事用のカッターナイフが転がっている。

敏は、それを手に取った。
刃を出し、光にかざす。
鋭い銀色の線が、天井の灯りを反射して、まぶしかった。

(俺は、何をしてるんだ)

ふと、手が震えた。
カッターを握る指先に、汗がにじむ。

そのとき、スマホの画面が光った。
画面には、典子の名前。
未送信のままのメッセージが表示されていた。

「帰ってきてくれ。話がしたい」

敏は、カッターをそっと元の場所に戻した。
そして、深く息を吐いた。

(明日、帰ってくる。…信じよう)

彼は、ソファに身を沈め、天井を見上げた。
時計の針が、静かに時を刻んでいた。


志乃は、帳場から戻ってきた典子に、湯呑を差し出した。

その手が、ほんのわずかに震えているのを、典子は見逃さなかった。

「…どうかされましたか?」

志乃は、少しだけ間を置いてから、静かに言った。

「さきほど、あなたのご主人からお電話がありました。
“明日、必ず帰るように伝えてほしい”と…それだけ、仰っていました」

典子の手が、湯呑を持ったまま止まる。
胸の奥に、冷たいものがすっと走った。

「…電話、してみます」

スマホを取り出し、夫の番号を押す。
コール音が鳴る。
けれど、出ない。

もう一度。
やはり、出ない。

(どうして…)

三度目の発信を終えたとき、典子は顔を上げた。
志乃の表情が、どこか張りつめている。

「…志乃さん。なんだか、嫌な予感がするんです」

志乃は、すぐに頷いた。

「行ってきなさい。今すぐ。
ここから駅までは、私が送ります。電車の時間も調べておきますから」

典子は、すぐに荷物をまとめた。
キーホルダーをポケットに入れ、志乃の車に乗り込む。

道中、ふたりはほとんど言葉を交わさなかった。
ただ、志乃の手がハンドルを握るたび、祈るように震えていた。

夜の街に戻った典子は、タクシーを飛ばして自宅へ向かった。
玄関の鍵を開ける手が、うまく回らない。
ようやく扉を開けると、家の中は静まり返っていた。

「…敏さん?」

返事はない。

リビングのドアを開けた瞬間、空気が変わった。
テレビはついたまま。
ソファに、敏が横たわっている。

「…敏さん?」

近づく。
呼びかける。
肩に触れる。

冷たい。

「……っ!」

典子は、震える手でスマホを取り出した。
110番。
そして、119番。

「夫が…夫が、動かないんです…!」

声が震える。
涙が止まらない。
けれど、どこかで冷静な自分が、状況を伝えようとしていた。

サイレンの音が近づいてくる。
赤い光が、窓のカーテン越しに揺れていた。

典子は、玄関の前で膝を抱えながら、ただ、ひとつのことを思っていた。

(どうして、私は…あのとき、戻らなかったんだろう)

『山村の宿』VOL.2— 志乃、動く —

帳場の電話が鳴ったのは、夜の10時を少し回った頃だった。
志乃は、帳簿を閉じかけていた手を止め、受話器を取った。

「はい、山村の宿でございます」

「…志乃さん、私です。典子です」

その声を聞いた瞬間、志乃の背筋がすっと伸びた。
声が震えている。
何かが、起きた。

「どうされました?」

しばらく沈黙が続いたあと、典子の声が、かすかに漏れた。

「…敏さんが、いなくなりました。
自分で…命を…」

 

_8f0fc793-03d3-407b-9f9f-d91fac1d6e0a

 


志乃は、受話器を握る手に力が入るのを感じた。
けれど、声は静かに保った。

「典子さん、今どこに?」

「警察署です。事情聴取が終わって、今は待機してて…
でも、もう、どうしていいか…」

志乃は、すぐに言った。

「わたしが、そちらの警察に行きます。
今すぐ支度して、車を出します。
あなたは、気をしっかり持って。
それと、ホテルをひと部屋、取っておいて。
今夜は、そこで休むのよ。いいわね?」

典子は、少し戸惑いながらも、頷いた。

「…わかりました。ありがとう、志乃さん」

「電話を切ったら、すぐに婦警さんに頼んで。
この時間でも、きっと何とかなるから。
私は夜明け前には着くわ」

「…はい」

通話が切れたあと、典子はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。
けれど、志乃の言葉が、胸の奥で灯のように揺れていた。

(気をしっかり持って)

その言葉を反芻しながら、典子は立ち上がった。
近くにいた婦警に声をかける。

「すみません…あの、近くにホテルがあれば、ひと部屋、取ってもらえませんか?
…今夜、ひとりで家に帰るのが、ちょっと…」

婦警は、すぐに頷いた。

「わかりました。少しお待ちください。
すぐに手配しますから」

典子は、深く頭を下げた。
そして、窓の外を見た。

夜の街は、静かだった。
けれど、その静けさの向こうから、志乃の車がこちらへ向かっている気がして、
ほんの少しだけ、心があたたかくなった。


『山村の宿』VOL.2

— 再会の朝 —

警察署の受付に、志乃は静かに立っていた。
黒のコートに身を包み、髪をひとつにまとめている。
その姿は、夜明け前の空気のように凛としていた。

「昨夜、こちらに保護された典子という者に会いたいのですが…」

受付の婦警が頷き、奥へと案内する。
廊下の先、小さな待機室の扉が開かれる。

中には、ソファに座る典子の姿。
うつむき、手を組み、じっと床を見つめていた。

「典子さん」

その声に、典子は顔を上げた。
目が合った瞬間、何かが崩れるように、涙があふれた。

志乃は、ためらわなかった。
周囲の視線も気にせず、まっすぐに歩み寄り、典子をぎゅっと抱きしめた。

「私が来たから、もう大丈夫。
安心して。
…ひとりじゃないわよ」

典子は、志乃の胸に顔をうずめ、声をあげずに泣いた。
その肩が、小さく震えていた。

少し離れた場所で、若い婦警と、その先輩らしき婦警がふたりを見守っていた。
若い婦警が、そっとつぶやく。

「…よかったね。来てくれて」

先輩婦警は、静かに頷き、ふたりに背を向けて言った。

「少し、ふたりきりにしてあげましょう」

しばらくして、典子がようやく顔を上げた。
志乃は、そっとハンカチを差し出す。

「ありがとう、志乃さん…ほんとうに、来てくれて」

「当たり前でしょ。
あなたが“声をくれた”んだから、私は応えるだけよ」

ふたりが部屋を出ると、先ほどの婦警たちが待っていた。
典子は、深く頭を下げた。

「昨夜は…本当にお世話になりました。
おかげで、ひとりじゃなかったです」

婦警たちは、にこやかに頷いた。

「どうか、無理なさらずに。
何かあれば、いつでも連絡してくださいね」

志乃も、丁寧に一礼した。

「ありがとうございました。
この方を、しばらく私の宿でお預かりします。
どうか、よろしくお伝えください」

外に出ると、朝の光が街を照らし始めていた。
志乃の車に乗り込むと、典子は深く息を吐いた。

「…ホテル、予約してもらってるの。
そこに、行こう」

志乃は頷き、エンジンをかけた。

「ええ。今夜は、あなたが眠れる場所に行きましょう。
それから、少しずつ考えていけばいいのよ」

車は静かに動き出した。
朝の街を抜け、予約されたホテルへと向かう。

典子は、助手席で目を閉じた。
志乃の運転する車の振動が、心地よく身体に伝わってくる。

(この人が来てくれた。それだけで、今夜を越えられる)

そう思ったとき、ようやく、ほんの少しだけ眠気が訪れた。

『山村の宿』VOL.2

— 車中の涙 —

朝の光が、フロントガラスをやわらかく照らしていた。
街の喧騒はまだ始まっておらず、道路は静かだった。

志乃は、ハンドルを握りながら、ちらりと助手席の典子を見た。
彼女は窓の外を見つめたまま、何も言わない。
けれど、その肩が、かすかに揺れているのがわかった。

「寒くない?」

志乃がそう声をかけると、典子は小さく首を振った。
そして、ためらいがちに身体を傾け、志乃の肩にそっと寄りかかった。

「…ごめんなさい。
でも、今は…こうしていたいんです」

志乃は、片手でハンドルを握ったまま、もう片方の手をそっと典子の手の上に重ねた。
その手は、冷たく、そして震えていた。

「泣いていいのよ。
今は、泣いていいときだから」

その言葉を聞いた瞬間、典子の堰が切れた。
声を殺しながらも、涙が頬を伝い、志乃の肩を濡らしていく。

「…私、ひどい人間です。
あの人を置いて、あなたのところに戻ろうとした。
それなのに、もう…謝ることもできない」

志乃は、視線を前に向けたまま、静かに言った。

「典子さん。
人の心は、そんなに単純じゃない。
誰かを選ぶことは、誰かを傷つけることかもしれないけれど、
それでも、自分の心に嘘をつき続けることのほうが、
ずっと…苦しいわ」

典子は、志乃の肩に顔を埋めたまま、さらに強く涙をこぼした。

「…志乃さん、私、どうしたらいいのかわからない」

「わからなくていいのよ。
今は、ただ生きていて。
それだけで、十分だから」

車は、朝の光の中を静かに走っていく。
ふたりを乗せたその車は、まるで世界から少しだけ切り離された、
小さな舟のようだった。


『山村の宿』VOL.2

 

— 和室にて、手配の朝 —

ホテルの和室は、まだ新しい畳の香りが残っていた。
障子越しの光がやわらかく差し込み、部屋の中は静かだった。

典子は、座卓の前に正座していた。
目の前には、スマホとメモ帳。
その横に、志乃が静かに座っている。

「…火葬場の予約、午前中に取れそうです。
市の担当者が、空き状況を確認してくれるって」

志乃が、落ち着いた声で伝える。
その手には、すでにいくつかのメモが並んでいた。

「お義父さんとお義母さんには、私から電話します。
あなたが話すのは、もう少し落ち着いてからでいいわ」

典子は、うつむいたまま、小さく頷いた。

「…本当に、すみません。
全部、志乃さんに頼ってばかりで…」

志乃は、ふっと微笑んだ。

「頼っていいのよ。
今は、あなたが“ひとりじゃない”って思えることのほうが、大事だから」

その言葉に、典子の目が潤んだ。
けれど、もう泣くまいと、唇をきゅっと結んだ。

「…じゃあ、お願いします。
義父母には、私の代わりに…」

志乃は頷き、スマホを手に取った。
番号を押し、呼び出し音が鳴る。

典子は、座卓の上に置かれた湯呑を両手で包み込んだ。
志乃の声が、静かに部屋に響く。

「もしもし、はじめまして。
私、山村志乃と申します。
…はい、はい。実は、典子さんのことでお話がありまして——」

志乃の声は、終始落ち着いていた。
相手の動揺を受け止めながら、必要な情報を丁寧に伝えていく。

その間、典子はただ、湯呑の湯気を見つめていた。
その湯気が、まるで自分の心の中のざわめきを映しているようだった。

やがて、志乃が電話を切る。

「ご両親、驚いていたけれど、落ち着いて話を聞いてくださったわ。
明日、こちらにいらっしゃるそうよ」

典子は、深く頭を下げた。

「…ありがとうございます。
私、ひとりだったら、何もできなかった」

志乃は、そっと典子の手に手を重ねた。

「あなたは、ちゃんと立ってるわ。
今は、誰かの手を借りながらでいいの。
でも、あなたの足で、ちゃんと歩いてる」

典子は、その言葉に、ようやく小さく微笑んだ。
その笑みは、まだかすかだったけれど、確かにそこにあった。

『山村の宿』VOL.2

— 志乃、宿に告げる —

典子が湯呑を手に、ようやく少し落ち着いた表情を見せた頃。
志乃はそっと立ち上がり、部屋の隅に置かれた電話の受話器を手に取った。

「ちょっと、宿に連絡してくるわね」

典子は頷き、黙って見送った。

「はい、山村の宿でございます」

電話に出たのは、番頭の頭(かしら)、涼だった。
若いが、手際がよく、志乃が信頼を寄せている人物だ。

「涼さん、私。志乃よ」

「あっ、女将さん。お疲れさまです。
典子さん、大丈夫でしたか?」

志乃は、少しだけ間を置いてから答えた。

「…ええ、今は一緒にいるわ。
でも、状況が思ったよりも深刻でね。
しばらく、こちらに残ることにしたの」

「わかりました。こちらのことは心配なさらずに。
佳代さんとも連携して、なんとか回しますから」

「ありがとう。
お客様の予約状況は、帳場のノートに書いてある通りよ。
何かあったら、すぐに連絡して」

「はい。女将さんも、どうかご無理なさらずに」

志乃は、受話器を持ったまま、ふっと息を吐いた。

「…涼さん。
人って、ほんとうに、いつ何があるかわからないわね。
だからこそ、今そばにいる人を、大事にしないといけないのね」

「…はい。そうですね」

「じゃあ、お願いね。
数日は戻れないと思うけれど、よろしく頼むわ」

「承知しました。
こちらは大丈夫です。
女将さんも、どうかご自分の時間を大切に」

電話を切ったあと、志乃はしばらく受話器を見つめていた。
宿を離れるのは、そう多くない。
けれど、今は迷いがなかった。

(この人のそばにいる。それが、今の私の役目)

志乃は、そっと和室に戻った。
典子は、まだ座卓の前で、静かに湯呑を見つめていた。

「宿には伝えたわ。
しばらく、ここにいるから。安心して」

典子は、志乃の言葉に、ゆっくりと頷いた。
その目に、また少しだけ、光が戻っていた。

『山村の宿』VOL.2

— 葬儀の打ち合わせ —

和室の襖が、控えめにノックされた。

「失礼いたします。葬儀社の者です」

志乃が立ち上がり、襖を開ける。
黒いスーツに身を包んだ中年の男性が、深く頭を下げた。

「このたびは、ご愁傷様でございます。
ご遺族の方とお話をさせていただければと…」

「どうぞ、お入りください。こちらへ」

志乃が案内し、葬儀屋の男性は座卓の向かいに腰を下ろした。
典子は、少し緊張した面持ちで、背筋を伸ばす。

「まずは、火葬の日時についてですが…
市の火葬場が明後日の午前中に空いております。
それに合わせて、通夜と告別式を前日に行う形になります」

志乃が、そっと典子の手元にメモを差し出す。
典子はそれを見ながら、ゆっくりと頷いた。

「…はい、それでお願いします」

「ご親族の人数や、参列者の見込みは?」

「…両親と、あとは…数人、会社の方が来るかもしれません」

「承知しました。では、家族葬の形式でご案内いたします。
式場の使用料、火葬費用、祭壇、返礼品などを含めて、
おおよそこのような見積もりになります」

男性が差し出した紙に、数字が並んでいた。
典子は、それを見て一瞬、視線を落とした。

志乃が、そっと口を開く。

「ご予算のご相談も可能ですか?」

「もちろんです。ご希望に応じて調整いたします。
無理のない範囲で、心のこもったお見送りができるようにいたしますので」

典子は、ようやく顔を上げた。

「…お願いします。
あの人、静かなのが好きだったから。
派手じゃなくて、落ち着いた式にしたいんです」

「かしこまりました。
では、こちらで準備を進めさせていただきます」

打ち合わせが終わり、葬儀屋が部屋を出たあと。
典子は、深く息を吐いた。

「…現実って、こうやって進んでいくんですね。
気持ちが追いつかなくても、時間は待ってくれない」

志乃は、そっと典子の隣に座り、湯を注いだ。

「だからこそ、今は“誰と一緒にいるか”が大事なのよ。
あなたが、ひとりで抱え込まないように。
私は、ここにいるから」

典子は、湯呑を受け取りながら、静かに頷いた。

「…ありがとう。
志乃さんがいてくれて、本当によかった」


『山村の宿』VOL.2

 

— 湯気の向こうの本音 —

夜の帳が下り、和室の灯りがやわらかく畳を照らしていた。
葬儀の打ち合わせを終えたふたりは、座卓を挟んで向かい合っていた。

湯呑の中の緑茶は、もうぬるくなっていた。
けれど、その湯気はまだ、かすかに立ちのぼっていた。

典子が、ぽつりと口を開いた。

「志乃さん…
何もかも、頼んでしまって…ほんとうに、ごめんなさい」

志乃は、首を横に振った。

「謝らないで。
頼ってくれて、私はうれしいのよ。
あなたが、私を思い出してくれたことが」

典子は、湯呑を見つめたまま、しばらく黙っていた。
そして、声を震わせながら、言った。

「…わたし、ほんとうは、敏さんのこと、好きだったの。
ちゃんと、愛してた。
でも、あの晩…志乃さんと過ごした夜のこと、
今になって、後悔なのか、何なのか…わかんなくなっちゃった」

志乃は、静かに典子の言葉を受け止めた。
すぐには答えず、ただ、湯呑を両手で包み込んだ。

「…それでいいのよ、典子さん。
わからなくて、当然。
人の心は、そんなにきれいに整理なんてできないもの」

典子は、顔を上げた。
志乃の目は、まっすぐに自分を見ていた。

「後悔してもいい。
でも、それが“間違いだった”って意味じゃない。
あの夜、あなたが私に見せてくれたものは、
たしかに“あなたの一部”だった。
それを、私は大切に思ってる」

典子の目に、また涙がにじんだ。

「…志乃さん、私、どうしたらいいのかな。
これから、どうやって生きていけばいいのか、わからない」

志乃は、そっと手を伸ばし、典子の手を包んだ。

「一緒に考えましょう。
急がなくていい。
まずは、明日を越えること。
それだけで、今は十分よ」

典子は、志乃の手のぬくもりに、そっと身をゆだねた。
その手が、今の自分をつなぎとめてくれている気がした。

『山村の宿』VOL.2

— 志乃、扉の前にて —

朝の光が障子を透かして、和室にやわらかく差し込んでいた。
典子は、まだ布団の中で静かに目を閉じている。
深く眠っているわけではないが、身体を起こす気力はまだ戻っていなかった。

そのとき、部屋の扉が控えめにノックされた。

「…失礼します。典子さんのお部屋でしょうか」

志乃は、すぐに立ち上がり、襖を開けた。
そこには、敏のご両親と、典子の両親——ふた組の夫婦が並んで立っていた。

皆、黒やグレーの服に身を包み、表情は硬い。
けれど、その目には、戸惑いや心配がにじんでいた。

志乃は、深く頭を下げた。

「お越しいただき、ありがとうございます。
申し訳ありませんが、典子さんは体調を崩しておりまして、
今はお休みになっております」

ご両親たちは、顔を見合わせた。

「そうですか…無理もないですね」
と、敏の父が低くつぶやいた。

志乃は、声の調子を少しだけ和らげて続けた。

「もしよろしければ、お話はロビーでいかがでしょうか。
今は、静かにしてあげたいのです」

典子の母が、そっと頷いた。

「…そうですね。
あの子、きっと、いっぱいいっぱいなんだと思います」

「はい。私が代わりにご案内いたします。
どうか、少しだけお時間をいただけますか」

志乃は、扉をそっと閉め、足音を立てぬように廊下を歩き出した。
ご両親たちも、静かにそのあとに続いた。

ロビーの一角、朝の光が差し込むソファ席。
志乃は、丁寧にお茶を注文し、ふた組の夫婦に向き合った。

「典子さんは、今、とても繊細な状態にあります。
どうか、責めることなく、見守ってあげてください。
それが、今いちばん必要なことだと思います」

敏の母が、そっとハンカチを握りしめながら言った。

「…あの子、何も言ってくれなかったの。
私たち、何も知らなかったのよ」

典子の父も、深くうなずいた。

「でも、こうしてあなたがそばにいてくれて、本当にありがたい。
娘が、あなたに連絡した理由が、少しわかった気がします」

志乃は、静かに微笑んだ。

「私は、ただ、あの方の声に応えたかっただけです。
それだけです」

『山村の宿』VOL.2

— 電話の向こうにある現実 —

障子の向こうに、昼の光が差し込んでいた。
和室の空気は、朝よりも少しだけ温かくなっていた。

典子は、布団の上でゆっくりと身体を起こしていた。
志乃がそっと湯を差し出す。

「少し、顔色が戻ったわね。
無理しないで、ゆっくりでいいのよ」

「…ありがとう。
でも、そろそろ、私もちゃんとしなきゃって思ってる」

そのとき、スマホが震えた。
画面には「葬儀社」の文字。

典子は、一瞬だけ志乃を見た。
志乃は、静かに頷いた。

「出てみて。
大丈夫、ここにいるから」

典子は、深く息を吸ってから、通話ボタンを押した。

「…はい、典子です」

「お世話になっております。葬儀社の○○です。
ご主人様のご遺体、先ほど火葬場併設の安置室に無事到着いたしました。
ご確認までにご連絡差し上げました」

「…ありがとうございます。
寒くなかったですか?
ちゃんと、毛布とか…」

「はい、ご安心ください。
ご遺体は丁寧にお迎えし、安置しております。
明日の通夜に向けて、準備を進めておりますので、
何かご不明な点があれば、いつでもご連絡ください」

「…わかりました。
本当に、ありがとうございます」

通話を終えたあと、典子はスマホをそっと畳の上に置いた。
そして、しばらく黙っていた。

「…敏さん、もう、あそこにいるんだね。
本当に、もう…いないんだ」

志乃は、そっと典子の隣に座った。

「でも、あなたの中には、まだいるわ。
思い出も、言葉も、全部。
それは、これからも消えない」

典子は、目を閉じた。
涙は出なかった。
けれど、胸の奥が、じんわりと熱くなっていた。

「…明日、ちゃんと見送る。
私の言葉で、私の手で。
それが、最後の責任だと思うから」

志乃は、そっと頷いた。

「ええ。
あなたなら、きっとできるわ」

『山村の宿』VOL.2

— 崩れる瞬間 —

葬儀が終わり、参列者たちがひとり、またひとりと帰っていった。
式場の空気は、どこか空っぽになったように静かだった。

典子は、骨壺を胸に抱えたまま、廊下を歩いていた。
志乃がすぐ後ろを、少し距離を保ちながらついていた。

「典子さん、少し休みましょう。
控室に戻って、お茶でも…」

その言葉に、典子は振り返ろうとした。
けれど、その瞬間——

ふらり、と身体が傾いた。

「…あれ?」

視界がぐらつく。
足元が、畳のように柔らかく感じる。

「典子さん!」

志乃の声が響いたときには、典子の身体は廊下に崩れ落ちていた。
骨壺は、志乃がすんでのところで受け止めた。

「大丈夫、典子さん、聞こえる?」

典子は、うっすらと目を開けた。
顔色は青白く、唇も乾いていた。

「…ごめん、志乃さん。
なんか、急に…力が入らなくて…」

志乃は、すぐに近くのスタッフを呼び、控室に布団を敷いてもらった。
その間も、典子の手を握りながら、静かに声をかけ続けた。

「大丈夫よ。
きっと、貧血と疲れが重なったのね。
生理も来てたし、無理もないわ」

典子は、かすかに頷いた。

「…全部終わったら、気が抜けちゃったのかな。
敏さん、ちゃんと送ったのに、
わたしの身体が、ついてこないなんて…情けないね」

志乃は、そっと額に冷たいタオルを当てた。

「情けなくなんてないわ。
むしろ、よくここまで頑張った。
あなたは、ちゃんとやり遂げたのよ」

控室の窓から、夕方の光が差し込んでいた。
典子は、布団の中で目を閉じながら、志乃の手を握っていた。

「…志乃さん、
もう少しだけ、そばにいてくれる?」

志乃は、迷わず頷いた。

「もちろんよ。
あなたが立ち上がれるまで、私はここにいるわ」

『山村の宿』VOL.2

— 助けを求める声 —

廊下に倒れ込んだ典子を、志乃が支えながら呼びかけていた。
その声に気づき、駆け寄ってきたのは、敏の両親と、典子の両親だった。

「典子!」

母がしゃがみ込み、娘の顔をのぞき込む。
父も、慌てて手を伸ばすが、どうしていいかわからず、ただ見守るしかなかった。

典子は、うっすらと目を開けた。
唇が乾き、声はかすれていたが、それでもはっきりとした言葉だった。

「…救急車、呼んでください」

その言葉に、一瞬、場の空気が止まった。
けれど、すぐに志乃が頷いた。

「お願いします。すぐに」

典子の父が、震える手でスマホを取り出し、119番にかける。
母は、典子の手を握りしめながら、涙をこらえていた。

「ごめんね…
もっと早く、気づいてあげればよかった」

典子は、かすかに首を振った。

「…違うの。
今、そばにいてくれて、うれしいの。
だから…お願い、呼んで」

数分後、救急車のサイレンが遠くから近づいてきた。
廊下の窓から、赤い光が差し込む。

志乃は、骨壺をそっと抱え、典子の枕元に置いた。
「敏さん、見守ってて」と、心の中でつぶやきながら。

救急隊員が到着し、典子の容態を確認する。
「貧血と過労の可能性が高いです。念のため、病院で検査を」

担架に乗せられた典子は、志乃の方を見た。

「…志乃さん、来てくれる?」

志乃は、すぐに頷いた。

「もちろん。
一緒に行くわ。安心して」

救急車のドアが閉まり、サイレンが再び鳴り響いた。
その音が遠ざかる中、残された家族たちは、静かに手を合わせていた。

『山村の宿』VOL.2

— 託すということ —

病室の窓から、午後の光が差し込んでいた。
点滴の滴る音が、静かに響いている。

典子は、ベッドに横たわったまま、目を閉じていた。
けれど、扉の向こうから聞こえる足音に、そっと目を開ける。

志乃が、そばに座っていた。

「ご両親が、来てくださってるわ。
お骨のこと、どうするか…って」

典子は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷いた。

「…持って帰ってもらって。
敏さんのことは、ご両親に託したいの。
あの人が育った家に、帰るのが、いちばん自然な気がするから」

志乃は、その言葉を聞いて、静かに目を伏せた。

「わかったわ。伝えてくる。
でも…本当に、いいの?」

典子は、天井を見つめながら、かすかに微笑んだ。

「うん。
わたし、あの人と一緒にいた時間を、
もう“手放す”ってことじゃないの。
ただ、今は…
あの人の“帰る場所”に、戻ってもらいたいだけ」

志乃は、そっと典子の手を握った。

「あなたのその言葉、きっとご両親の心にも届くわ」

数分後、志乃は病室を出て、廊下で待つ敏の両親に頭を下げた。

「典子さんからの伝言です。
“敏さんを、どうかおうちに連れて帰ってあげてください”と。
“今は、そちらが彼の居場所だと思うから”と」

敏の母は、目に涙を浮かべながら、骨壺を胸に抱いた。

「…ありがとう。
あの子の気持ち、ちゃんと受け取ります。
あなたにも、感謝しています」

志乃は、深く頭を下げた。

病室の窓の外、雲の切れ間から光が差し込んでいた。
典子は、その光を見つめながら、そっと目を閉じた。

(さようなら、敏さん。
でも、わたしの中には、ちゃんと残ってるからね)

『山村の宿』VOL.2

— 帰る場所 —

葬儀が終わり、病院で典子が目を覚ました翌朝。
志乃は、病室の窓辺に立ち、静かに外を見つめていた。
冬の光が、カーテン越しにやわらかく差し込んでいる。

「志乃さん、ほんとうにありがとう」
典子の声は、まだ少しかすれていたが、
その目には、確かな光が戻っていた。

志乃は、ふっと微笑んだ。

「私は、ただ、そばにいただけよ。
あなたが、ちゃんと歩き出したの。
それが、いちばんうれしいの」

「…また、会える?」

「もちろん。
でも、今は、あなたの時間を大切にして。
私は、宿に戻るわ。
あの場所も、私を待ってるから」

志乃は、駅までの道を、ひとり歩いた。
キャリーケースの音が、冬の舗装路に小さく響く。

途中、ふと立ち止まり、空を見上げる。
雲の切れ間から、淡い光が差していた。

(典子さん、きっと大丈夫。
あの人は、もう自分の足で立ってる)

宿に戻ったのは、夕方近くだった。
山の影が長く伸び、木々の間から冷たい風が吹き抜ける。

玄関の引き戸を開けると、
懐かしい木の香りと、ほんのり残る薪の匂いが迎えてくれた。

「ただいま」

誰もいないはずの空間に、志乃はそっと声をかけた。
その声が、柱と梁にやさしく反響する。

帳場に荷物を置き、囲炉裏の灰をかき混ぜる。
まだ微かに残っていた炭火に、新しい薪をくべると、
ぱちぱちと音を立てて火が灯った。

志乃は、湯を沸かしながら、
棚の上に置かれた一枚の写真立てに目をやった。

そこには、若かりし頃の志乃と、
かつての宿の女将だった母の姿があった。

「お母さん、
わたし、ちゃんと見送ってきたわ。
あの人も、あの人の大切な人も、
ちゃんと、前を向いてた」

湯が沸き、湯呑に注ぐ。
湯気が立ちのぼり、志乃の頬をやさしく撫でた。

「…さて、明日からまた、宿を整えなきゃね。
あの人たちが、いつかふらっと来たときに、
ちゃんと迎えられるように」

志乃は、湯呑を両手で包み、
囲炉裏の火を見つめながら、静かにひと息ついた。

 

🌟 みんなで広げよう!🌟

『輝虹会スターレインボー』の活動をもっと多くの人に知ってもらうために、ぜひSNSで投稿をお願いします!
ハッシュタグ #スターレインボーを付けて、活動の魅力やイベントの様子を共有してください。
あなたの投稿が地域の未来づくりを応援する大きな力になります!✨ 🌈

最後までお読みいただきありがとうございます。スターレインボーのブログは、40人に1人に読まれています。多くの読者に支えられて、これからも皆さんにとって有益な情報や楽しいコンテンツをお届けしたいと思います。ぜひ、ご友人や家族にもシェアしていただけると嬉しいです!

フィードバックとコメント
ご意見やフィードバックがございましたら、サイドバーのメールフォームからご連絡いただくか、こちらのメールアドレスにご連絡ください: [email protected]

皆さんからのご意見をお待ちしております!

「にほんブログ村のランキングで私たちのブログをサポートしてください!下のバーナーをクリックするだけで投票できます。皆様のご協力をお願いいたします!」

にほんブログ村 地域生活(街) 中部ブログ 中部情報へ にほんブログ村 地域生活(街) 中部ブログへ にほんブログ村 中学生日記ブログ 女子中学生へ にほんブログ村 中学生日記ブログへ にほんブログ村 高校生日記ブログへ