毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

やりたい事は未来の事。たくさんあっていい。

やりたい事というのは、今すぐ実現する事とは違います。やりたいからと言って、必ずそれをやるとは限らないという事です。

 

もちろん、やりたいからと言って、必ずそれをやらないといけないわけでもないし、ただ、やりたい事としてお題に上げてみる、その程度の場合もあるんです。

 

「やりたい事」と「やる事」はイコールではありませんから、挙げるのは自由なんです。

 

それをやるかどうかは未来の話であって、即座に実行されるようなものではないわけで、その意味で、やりたい事はあくまでやりたい事なんです。

 

やるかどうかはこの先にことであって、未来にそれをやるかどうかなんです。

 

今、急にやりたいと思いついたところで、それを将来必ずやるとは限りません。ただふとそう思ったに過ぎないわけで、それでいいわけです。やりたい事とはそのようなものなのです。

 

やりたい事は、その言葉の文体が未来形のようになっているわけで、未来にそれをやるかどうかということなんです。

 

くどいですが、要するに、やりたい事は未来の話をしているんです。

 

これから先の未来に、それをやりたい、あるいは、それをやりたいかどうか、ということなんです。

 

未来には色んな事が現実化する可能性がありますから、その1つとして、自分が未来にやるかもしれない色んな候補として、それをやりたいと思ったということなんです。

 

人は基本的に、今考えている事は、即座に実現するわけではなく、むしろ未来の可能性についてであるわけで、やりたい事については自由に今考えていてもいいんです。

 

未来の可能性に過ぎないわけですから、やりたい事はいっぱいあったって、何の問題はないんです。未来の可能性ですから。

 

でも、確かにやりたいという気持ちは、今湧き上がったわけで、その気持ちを言葉にしておいてもいいんです。

 

これから先、いつかやるかもしれないわけですから、それは言葉にしたっていいんです。言葉にしておくことで、また別の時に思い出すかもしれません。

 

そうやって、いつもやりたいと思っていると、本当にそれを実現するときが来るかもしれません。自分がそれを実際にやる事として踏み切る時が来るかもしれません。

 

覚えていれば、それをやる確率は上がるかもしれません。

 

やりたい事は、未来の事であり、また、文体として未来形を含んでいるのであり、だから、いっぱいあっていいし、やりたい事として希望を持っていいんです。

 

そのように考える事は自由だし、やりたい事はたくさんあったっていいんです。

人は、自分自身が考えている事を変えたいと願っている。

人は、いつも変わりたいと願っているわけですが、言うまでもなく、急に変わる事はできません。

 

とは言え、実は、人は常に変わり続けているのですが、分かりやすく変わっているわけではないので、実感として、変わったと明確に認識したいと思っているのです。

 

例えば、見た目を変えれば変わったと認識できるわけですが、その意味で、服を着替えたり髪型を変えたりすれば、即座に変わる事は出来るわけですが、きっとこのような変化は望んでいるわけではないんです。

 

もっと、何か、見た目ではない、自分自身の変化なんだと思います。

 

一体自分自身の変化とは何でしょうか。

 

見た目とはまた別の、明確な事実でしょうか。引っ越しをして環境を変えるとか、人間関係を変えるとか、そのような事実を変えると、変化は実感できそうです。

 

ただ、それだけでは、自分自身が変わったとは言えない気もします。

 

環境を変えても自分自身が本質的には変わるわけではないので、自分そのものが変わるという為には、やはり外的な要因ではなく、内的な要因を変えるという事になるわけです。

 

人はいつも何かを考えていますが、考えている内容が変わってくると、何か変わってきたように感じそうです。

 

人間は認知機能によって生きていますから、人間の認知が変われば、何か変化を感じそうです。

 

その意味で、考える事そのものが変わってくると、自分は変わってきた、と実感できそうです。

 

逆に言えば、いつも同じような事を考えているのは、問題なんだと思います。それは、自分は変わっていない、という事につながるんだと思います。

 

ですから、昨日まで考えていたことが、今日になってガラッと変わっていたら、自分は何か変わってきた、と認識できるような気がします。

 

考える事が変わるためには、考える材料が変わる必要があります。いつも同じ材料を使って考えていても、きっと考える内容は変わらないのです。

 

何か新しい情報や体験があると、きっと考える内容は変わってくるのです。

 

そして、考える事と感じる事は影響していますから、考える事が変わる事によって感じる事も一緒に変わってきます。このような変化を、きっと人は望んでいるんです。

 

考えることが変わってくると、行動もきっと変わってきます。考える事が認知と関係しているのであれば、認知により行動が変わってくるというわけです。

 

その意味でも、考える事を変えていきたいんです。そして、それは認知を変えていきたいということでもあるんです。

 

そうする事で、人は自分が変わってきたという事を認識できるし、何かもっと自分自身が大きく変わっていく事を期待できるんです。

人が考えている事は、未来についての可能性。

人はいつも何かを考えています。これからどうしていくか、を考えています。

 

もちろん、過去の事も振り返っています。自分の記憶を辿り、過去の自分や出来事について考えるのです。

 

ですが、それも、今後の事につながる事として考えているわけです。

 

人は、今この瞬間、これから先の事について考えているわけです。未来の事を気にしているわけです。

 

時には、今目の前の事について集中もしています。何か、目の前の対象に集中し、没頭している時、確かに未来の事は考えていません。

 

人は何かに意識を集中させていると、それ以外の事は考えないのです。

 

人の散漫さは、注意を散漫にし、注意の資源の一部を未来の事について考える事に充てるかもしれません。ですが、注意の資源の量は決まっていますから、その資源を分散させても注意力は低いために、注意を分散させたまま未来の事を考えても、それは中途半端な思考です。十分に考えられていません。

 

それは同様に、目の前の対象に対する集中の度合いも下がります。注意の資源はできれば一つの事に振り向けるのが良いのです。

 

そのような意味では、散漫さはあまり良くはありません。

 

そして、目の前の集中する対象が無い時、人の思考は未来に向けられます。これからどうするかという事を自然と考え始めます。

 

未来の事について自動思考してしまうという事です。

 

未来は常にそのように思い抱く事で、自分の中で想像されます。

 

思考して、想像した未来は、実現できるのかできないのか分かりません。認知として想像した未来はあくまで可能性であって、実現するとは限らないのです。

 

ですが、常に人は、未来の事について考えてしまうのです。

 

あるいは、想像している事が未来の事につながっているのかもしれません。

 

未来の事について意識的に考えているのではなく、考えている事が未来につながっていくのかもしれません。

 

考える事はそのまま実現するわけではないし、可能性に過ぎませんから、ただ、ひょっとしたら、未来に実現するかもしれないという事です。

 

ですから、人は想像し、考える事というのは、現実ではなく、可能性であって、もし実現するとしてもそれは未来に実現するかどうかであって、その意味で、考える事は未来につながる可能性があるという事です。

 

何かに集中していないんだったら、人はただ想像し、考えるんです。人間はそのような認知の中にいるのです。

 

そして、そのようにしてただ考えている事は、今の現実ではなく、単なる可能性であり、そして、その可能性が未来についての潜在性なのです。

人間は認知空間を発展させてきた。

人間は、認知空間を発展させる事で実社会を発展させてきた。そのようにも説明できると思います。

 

メディアの発展が社会を発展させてきたという文脈は、歴史的にも良く説明されてきたと思います。

 

メディアは人間の認知に関係していて、あらゆる情報が人間の認知に蓄えられ、作用する事によって、人々の認知空間が多様に発展してきたと考える事が出来ます。

 

これによって人間は色んな事を知り、活動する範囲を広げてきたと言えるわけです。

 

人の考える内容も、認知空間の発展とともに、共有され、拡張されてきました。この事は、人類の歴史においても不可逆的に発展してきていて、間違いなく、現代の人間の知識は、古来の人間より広くたくさん持っています。

 

言葉は、人間の認知ととても相性がよく、世の中のあらゆる知識や認識が、言葉により為されるわけです。人とのコミュニケーションを円滑にするだけではなく、認知した事をより明確に、視覚化する事にも役立ちます。

 

概念も、認知空間を発展させる事に寄与してきました。概念はたいていそれを示す言葉を持っていますが、それは言葉を人間が取り扱いやすいから言葉として概念を表しているのであって、概念は概念として独立してあるわけです。

 

概念という無形なものを取り扱う事によって、人は認知を共有したり発展させたりする事が可能であるわけです。

 

それは、当然人間が常に何かを認知しながら過ごしているからで、ある意味、認知すること無しに生活はしないわけで、認知というフィルターを通して、人は生きているわけです。

 

現実的に、自分の目の前に広がった何かでなくても、認知上の空間は各人の中に広がっているわけで、その空間を人は扱いながら過ごしているわけです。

 

認知する空間が快適な空間であれば人は確かに心地良いし、その空間が不快であれば、人は心地良くはないわけです。

 

物理的な空間よりも以前に、認知的な空間が重要であるわけです。

 

目の前に物理的な空間は確かに広がっていたとしても、それは認知の空間のフィルターを通して認識しているわけで、どのようにしても、認知の空間がまず自分の中にあるわけです。

 

ですが、認知の空間は自由度が高く、想像するのもこの認知空間だし、思考するのもこの認知空間だし、時間を感じられるのもこの認知空間だし、認知空間をどのように構築し、発展させるか、そのことが人間にとっては重要であるわけです。

 

そして、人は自分の認知空間を豊かなものにしたいし、心地良いものにしたいわけです。

認知空間を想像し、発展可能な未来を構築する。

人間には認知する能力があって、認知する事で生きていると言っても過言ではありません。

 

人間の認知する領域は大きく、この認知領域の中を体験する事で生きているとも言い換えられます。

 

自分自身で認知の領域をどのように想像し、構築するか。この事はとても重要です。

 

想像する認知の領域は、視覚的なものかもしれないし、空間的なものかもしれません。

 

認知の空間はその意味で自由な空間であり、自分で自由自在に設計して構築する事が可能です。

 

場合によっては、自分自身で自分の認知空間を構築する事が出来ず、アプリオリの仕組みによって勝手に構築されていて、非常に不自由を感じる事もあります。

 

認知空間が自分で扱えるかどうかは、自分が自由なのか自由ではないのか、に関わってきます。出来れば、自分の認知空間に対しては、自由であった方が望ましいわけです。

 

人の認知空間は人によって様々であり、それは主観的であるがゆえに、いかようにしても自分だけの認知空間であり、独自な空間であるわけです。

 

現在の時点においては、技術的にも、この認知空間を他の人に正確に説明する事は困難だし、再現する事も困難です。

 

自分の中の認知空間は、実世界の中に基本的には再現されるものではないですが、再現しようとする事は出来るし、再現する事も原理的には可能です。

 

ですが、たいていの場合は、今すぐ再現する事はできないし、詳細にわたって再現する事は極めて難しい事です。

 

ただ、今からその認知空間を、実現する為に努力する事は出来るし、絶え間ない努力と実践によっていつしか実現のものにする事は可能です。

 

その意味で、自分の認知領域における空間は、未来的であって、未来に向かう時間に置き換える事が出来るわけです。

 

大雑把に言えば、自分の認知空間の事というのは、未来の事でもあるわけです。

 

実現するかどうかは不確実ですが、未来には実現する可能性を秘めているわけです。その意味で、想像する認知空間は、時間の概念に置き換えながら、未来への実現可能性を含んでいるわけです。

 

未来的であるわけですから、認知の空間は広い方が良く、開かれている事が望ましく、発展可能性に満ちている事が望ましいわけです。

 

人はいつも未来に発展性を望んでいるし、不確実だろうがなんだろうが、可能性に満ちていてほしいわけです。

                             

人間の持つ認知は、そのようにして認知空間を想像し、それを大きく広く開かれたものとして自ら構築し、それを実現しようと未来に向かっているわけです。

 

人間の認知空間が、時間を作り出し、自由を切り開いていくわけです。

自分の中にあるものを育てる。

自分の中にあるものを育てる。きっとそういう事が大切なんだと思います。

 

自分の外側に何かを作ろうとしても、自分の外側ですから、外側に何かを作ったらそれで終わりになってしまいます。もちろんそれで終わったって、外側に何か作ったんならそれはそれでいいんです。

 

ですが、外側にそれを作ってもしょうがない。そう感じる事もあるんです。

 

別に外側に何か作ってみて、それで満足するなら、満足した分それでいいし、満足が足りないならさらに何かを作ったらいい。ですが、人間なかなかそうはならないんです。

 

自分の外側に作っても、それは外側ですから、外側のものにはそんなに関心は持てないんです。最初は関心を持てても、すぐに関心を失うんです。

 

そして、たいていの場合、外側に何かを作ろうとするモチベーションが自分の中にないんです。自分の中にモチベーションがあるのなら、それを外側に作ろうとはしないんです。

 

この場合、自分の中のモチベーションによって何かをするならば、それは外側に何かを作るとは言わないんです。

 

モチベーションは、基本的に、自分の内側にあるものなんです。

 

ですから、何かをやるにしても、作るにしても、それは自分の内側にあるモチベーションに支えられている事が重要で、それはつまり、自分の内側の事なんです。

 

自分の内側にあるものを大切に育てていく。そういう感じになるんです。

 

自分の中に育っていくものというのは、たいていそれ以前に、自分の中に育っていく為の資源があってこそなんです。

 

自分の中に、育つための資源があるし、養分があるんです。

 

それは、自分の内部に取り込んだ情報かもしれないし、インプットした何かかもしれないんです。

 

そういったものは、基本的に自分の外側には無くて、自分の内側にあるんです。

 

何か、自分の中で育てていくには、育てる為の資源が自分の中に十分溜まっているんです。

 

自分の内側に、そういったものが溜まっていないのに、何かを育てようがないんです。

 

その意味で環境は大事です。自分の中の環境が十分に満たされて、資源や養分や情報やインプットで満たされてはじめて、何かが育っていくんです。

 

自ら何かを育てていくんです。

 

そして、育っていくスピードや育ったものの大きさはそんなに重要ではないんです。ただ、育てるという事が大切なんです。

 

育てるのは他の誰でもなく自分であり、自分自身こそがそれを育てたいんです。

 

そのようにして人は、自分の中で、何かを育て、耕し、そして実っていくんです。実っていく果実も確かに重要ですが、育てるということこそ重要なんです。

諸行無常のシステム。歯車の手を放す。

人は確かに何かを変えようとずっと何かをしているんですが、なかなか変わらないわけです。

 

自分も何か大きなシステムの歯車の一部のようにして、回転し続けているわけですが、システムの一部として同じ場所で回転し続けているだけで、なかなか状況は変わらないわけです。

 

ただ、同じ場所で同じ活動をしているだけでは、活動を続ける事はできたとしても、活動の規模を変えるとか活動の内容を変えるとかまでには至らないわけです。

 

別に、同じ場所で、同じ回転を続けても問題は無いのですが、何かを変えていきたいのであれば、何か工夫は必要なわけです。

 

大きなシステムは一見頑丈に見えて、別に変えてはならないシステムではないはずです。

 

自分がそのシステムの一部だとしても、そのシステムの維持のために、自分が逸脱した活動をやってはいけない、という事はないはずです。

 

大きなシステムは、まるで個々の歯車が調和を維持して回転する事で成り立っているわけだから、回転数を急に変えたり、回転の向きを変えたりするとまずい気がしてしまいます。

 

自分の隣の歯車も、せっせと同じ回転を続けているわけだから、それに合わせないわけにはいかないように感じるわけです。

 

でも、大きなシステムはずっと同じというわけではないし、むしろ、そのシステムは常に変わり続けているかもしれないわけです。というより、ずっと変わり続けているんです。

 

そもそも、大きなシステムは維持されなければならない決まりなんて無いわけですから、それに合わせる必要なんてないんです。むしろ、合わせる事を望まれてもいないんです。

 

大きなシステムは諸行無常ですから、留まることなく変わり続けているんです。

 

ですから、自分自身も同じ回転数のひとつの歯車である必要はないんです。

 

いつでも、変更可能な歯車で良いんです。歯車でなくてもいいんです。

 

お互い、がっちりと歯が噛み合っていないといけない事も無いし、噛み合ったり噛み合わなかったりしながら、むしろ変化に富むシステムである方が良いんです。

 

いつの間にか、自分自身が噛み合う歯車になってしまっているわけで、歯車になる必要すらそもそも無かったんです。自ら、盲目的に、歯車になってしまっているんです。

 

ですから、噛み合わせようなんてする必要もないし、歯車の歯なんてそもそも無いし、同じ場所でぐるぐると回転し続ける必要もないんです。

 

諸行無常のシステムの中で、自分自身こそが諸行無常であって、常に留まることなく変わり続けているんですから、ただその手(=歯)を放したらいいんです。