滔想 tōsō

開設 2023年1月17日 火曜日 午前3時51分58秒

速読英単語 必修編 [改訂第4版]

 現段階では改訂版第7版増補版となっているので、改訂第4版がどれだけ古いものか容易に想像がつくというものだ。

 直ぐにDUO3.0の二周目に入ろうかとも思ったが、気分転換で速読英単語必修編を進めてみることにした。68本の英文が掲載されているが、その全てに蛍光ペンの跡がある。ははぁ、どうやら私はこれを一度は終わらせたらしい。確かに全ての内容が薄らと記憶の片隅に残っている。

 

 兎に角英文に慣れること、これを今の自分に課している。もっとじっくりと文章の構造について把握し、しっかりとした理解を身につけるべきなのかもしれないが、もうそれは後回しにする。進んだ証が欲しい、残りのページが少なくなる快感を味わいたい。そうしないと全てが厭になってしまいそうだ。

 それに改めて英語の参考書を見直してみると、どうも日本語の説明文がとてもわかりにくい気がしてならない。それぞれのページの構成も然り。もっとわかりやすく、もっと丁寧な言葉で解説できるような気がするのに、残念ながらそうなっていない。英文が英語としてすんなりと入ってきて欲しいのに、その煩わしい日本語に思考を奪われてしまっては意味がない。英語に精通しているからといって母国語である日本語の能力が高いわけではないようだ。

 私ならこの様に表現するかもしれないな……そんなことを一々意識させられるくらいなら、みっちりとEnglishの流れに身を置きたい。学習に効率的な長文に触れる方がマシな気がする。

 

 悲しいかな、必修編に赤い太字で書かれている重要語でさえ覚束ない。つい先日終えたばかりのDUO3.0に出てきたものも「あれ、これなんだったっけ」と躓く。「ん、これはDUO3.0ではお目に掛からなかったぞ」と思いDUO3.0の索引を手繰るとあら不思議、普通に本文の中で使われていたりする。

 

 未だ真剣に取り組み始めてから日が浅い今の段階で思うことではないが、それでも自分の記憶力の悪さに辟易する。他言語を学習を通じて学び、流暢に話せる様になった人たちの頭の中は一体どうなっているのだろう。

 

-学習法メモ-

1. 速読英単語に掲載されている英文をPCで打ち込む

2. 派生的な理解については無視

3. どうしても理解を深めたい時だけ辞書を開く

4. 自信の無い単語に出会したらDUO3.0で調べ、その例文を速読英単語に書き込む

5. 流れる様に理解できない文章があれば、徹底的に見つめて脳内に落とし込む

 

久々にイヤホンで音楽を

 DUO3.0を一通り一周したので、それを聞きながら歩こうと思った。

 

 何年も前に買った教材なのに、一度も通して終わらせたことがなかった。この教材に限らず、大体どんな教材も最後まできちんと終わらせたことが殆どない。忍耐力が無く飽きっぽい性分なので、ついつい他の何かしらに手を出してしまう。一点に集中して取り組めない。こんな人間だから私は何事においても中途半端でしかないのだろう。

 

 気付けば最近、全然イヤホンで音楽を聴いていなかった。家に居てもずっと音楽を流しっぱなしにすることが無くなっていた。何だか音楽を聴いているだけでも疲れてしまう気がしていた。

 

 英語の音声を聞きながら歩くのは意外と難しい。カナル型のイヤホンは苦手なので耳掛け式を使っているが、これだと音声が環境音に負けてよく聞こえない。それに音楽の様に何となく聞き流すことが出来ないので妙に力んでしまうし、その分周囲への注意が散漫になってしまう。乗り物での移動以外では中々上手く活用できそうにない。

 事実、まだやっと一周を終わらせたばかりなので、例文中に未だ数多くの馴染まぬ単語があり、聞き流す程度で理解出来ない自分の方に問題がある。もう少し理解度を上げてからの方が良さそうだ。

 

 ということで、microSDに入っている音楽を聴くことにした。

 意味も分からぬまま、一部のフレーズだけを覚えて適当に口ずさむ洋楽。日本語の歌詞であってもその内容に惚れ込んで聴くというのはあまりない。歩きながら少しでも気持ちよくなれればいいと思って聴いているだけの音楽。

 いくつかの楽曲をシャッフルする中、アルバムを通して聴こうと思ったのはMIKAだけだった。

 

Origin of Love - YouTube

 生活の中に音楽を取り戻そうと感じたこの変化、何かしら前向きなものであるならいいなと思っている。この気持ちは長く続くのか、それとも直ぐに消えてしまうのか。

科学英語を考える - トム・ガリー

 外国語を学ぼうとする時に避けて通れない物の一つが品詞についてだが、未だに苦手意識が抜けない。普段、母国語である日本語を話している時には全くこの様な概念について考えていない為、身体に馴染んで行く気がしない。

 特に冠詞”a, an, the"には苦労させられる。日常的にその名詞が可算か不可算かなんてどうして考慮しなければいけないのか……まぁ、それが英語だから仕方ないのだけれど。

 

 Wikipediaの「英語の冠詞」ページの脚注に興味深いコラムがあった。東大理学系のウェブサイトの中にある、トム・ガリー氏のコラムだ。

 

www.s.u-tokyo.ac.jp

 冠詞という概念を紐解きながら、日本人が陥りやすい思考についてわかりやすく解説してくれている。 

 

 第11回には英語においての丁寧な表現のあり方についてわかりやすく書かれていて、特に

だれにとっても人の依頼を断るのは愉快なことではないので,「したくない」「できない」のような返事を出さなくても良いように依頼するのがベストなのである。

というのは新鮮な観点だった。

 「疑問」と「返答」が密接に結びついている言語の独特な感性だと思った。

 日本語だと断る時の言い方にはあまり拘りが無いというか、どの様な依頼に対しても曖昧に「ちょっと難しいですね」と答えればいい。

 

 何気ない日常会話の中に膨大な量の機微が内在しているから、本当に言語は奥が深いし、同時に徹底的に学ぼうとするのは気が遠くなる作業だと改めて思い知らされた。

陽気の訪れ

 早朝の冷たさから一転、少し春らしい日差しの1日だった。そうか、もう2月も終わろうとしているのか。

 

 春は好きではない。寧ろ怖いという感覚の方が強い。この季節に似合わない自分自身と向き合わなければいけないのが辛い。何年か前からは、桃色の花弁が色鮮やかに見えなくなった。

 

 桜が咲き誇っても、寂しさだけが胸に迫る。どの季節であっても楽しいことなんて見当たりはしないのだけれど、春には独特の嫌悪感が漂っている。

 

 どちらかと言うと葉桜の方が好きだ。その辺りから始まる新緑は美しいと思える。

 

 でも本当は、春を心穏やかに過ごせる様な人生を送りたい。 

一難去ってくれた

 一難去らずもう一難との状況がずっと続いている中、本当に一つ去ってくれたので少し嬉しい。この一件に一年も振り回された。しかし、一難去ってまた一難というのは変わっていない。しかもこの新たな一難も今後どうなることやら、皆目見当も付かない。

 

 誰しも隠したいことはあるし、隠さなければならないこともあるので、全てを大っぴらにしやがれとは思わないけれども、他人に迷惑が掛かる話ならばきちんと伝えておいて貰わないと困る。

 だからと言って話したところでどうにかなることもない。話しても伝わらない。相手がおかしいのか、私がおかしいのか、兎に角、脳の構造が人それぞれで違うのでどうしようもならない。

 

 本当の所、本心がさっぱりわからない。他人のモノも自分のモノも。

 

 自分にしか分からないことがある。客観的になれるからこそ分かることもある。でもこの段階で何かしらの間違いがあるのかもしれない。いざ伝えようとすると、伝達が上手くいかず、誤解が生じる。会って話ても、メールで伝えても、結局想いが伝わらない。それに加え相手の耳が遠くなっていたり、相手に認知障碍の傾向があったりすれば尚更意思の疎通が格段難しくなる。

 少しずつ相手の性分を理解し始めて、それを踏まえて配慮して、尊重しながら話をしても時は既に遅しで、今日にはまた別の相手の現実が立ちはだかっている。

 私には相手の思考に振れがある様に見えている。私はきちんと理路整然と物事を見極めている気でいる。が、昨日と今日で言うことが違う人たちと話す機会が多いと、もう何が何だかわからなくなって、自分が正しいという自信が脆くなっていく。自分の話したこと全てを音声やメモで保存しなければやっていけそうにない。でもそんなことは現実的ではないし、実際やってみたところで記録が膨大になって結局全てが厭になってしまいそうな気がする。

 

 でも、この一難が消えて取り敢えずスッキリはした……という整理が出来ないから私は常に憂鬱のままなのだろう。

 本当にサッパリと気持ちのいい状態を味わってみたい。もう長年経験していない。

今の私の英語力

 現段階でどの程度の英語力があるのか、英検やTOEICを受けていないので数字では表せない。それらの教材を買って模試的に測ることもできるのだろうが、その為だけに新しい教材を態々購入するのもバカらしく感じる。そんなことを考える暇があれば英文に向かえ、それが定石だ。

 

 英語の学習を進めるに当たって、戸棚に仕舞っておいた身綺麗なままの教材と向き合うと同時に、YouTubeで”Learning English"と検索して面白い動画がないか探したりしている。日本人が投稿している英語関連の動画も沢山あるが、嫉妬深い私は彼らの姿を見ると悔しくなってしまうのでそれらは避けて、基本的には英語圏を中心に、時には如何を問わず、とにかく外国人が話しているものを選んでいる。

 しかし当然、英語圏の人が英語で英語を教えているので、初歩的な段階で英英辞典を使っているかの如く、結局は真の理解に至らないまま分かった気になってしまっている嫌いがあるものの、それでも聞き取りの練習にはなるだろうと勝手に決めつけて、とにかく英語に触れる時間を増やそうとしているのだ。

 

 そんな中、やはり辿り着いたのはTEDだった。TEDには、日本語に翻訳されていないものも沢山あるものの、かなり興味深いテーマを扱ったスピーチが多いので今までも時々見ていた。

 西洋気触れは私の奥深くにまで染み付いてしまっているのだろう、何故かアメリカ人が壇上に立って英語でスピーチをする様は特に格好良く見える。堂々と、自身に満ち溢れた姿で彼らの様に何かを語れたらどれだけ気持ち良いだろう……。

 

Learning a language? Speak it like you’re playing a video game | Marianna Pascal | TEDxPenangRoad - YouTube

 失敬、安易に「アメリカ人」と一括りにしてしまう辺りが実に日本人らしい。彼女はカナダ人だった。

 

 現段階、彼女が話している英語を音としては90%以上聞き取れる。結果的に何を言ったのかの95%以上を日本語で説明できる。ただ、正確に文章に起こしたり翻訳できるのかと言われると、おそらく70%以下になってしまうだろう。

 勿論、彼女がこの動画の中で話している英語は非常に初歩的だと思うが、その程度の表現さえ自らの頭で考えて組み立てる力は零に等しい。

 流し読みでなんとなく理解出来た気になる状態から脱して、正確な理解力を手に入れ、それらを自身で表現できる状態にまで持っていかなければいけない。

 

 これを苦行と言わず何と呼ぼうか。

 

 彼女のスピーチは素敵で、ユーモアもあって、聴いていて楽しくなる。途中、彼女があるバーベキューで遭遇した場面のエピソードには日本人も出てきて、しかもそこがこの動画のハイライトだったりもする。

 が、私は完璧主義なものだから、気楽には英語と向き合えない。どうしても彼女の流暢な言葉に私の心は向かってしまう。スローなカタコトから抜け出したい。

 

 頑張れ、自分。

 

あれから一年

 新型コロナウイルスの様々だけでも面倒な状況だというのに、それに加えて長年燻っていたロシア・ウクライナ間の抗争が激化して本格的な戦争になってしまうとは想像していなかった。そしてそれが一年も続くことになるとは。

 

 当初、ロシアが圧倒的に優勢でキエフが陥落するのは時間の問題だという報道ばかりが続いていたのに、少し経てば今度は真逆になり、ロシアはじり貧状態に陥っていて、キーウは怒涛の勢いに乗じて東部を奪還し、あわよくば併合されたクリミアまでも手中に収めるのではとの情勢が語られるようになった。

 何れにせよ、もうすぐ間もなくという言葉が踊るだけ踊って、結果はこの有様だ。

 これだけ毎日、日本の情報について目一杯の言葉で伝えられているのを見ているのにも関わらず、国内の政財界の本質的な動向など表に出てくることは皆無に等しく、取り敢えずの理解にさえ苦しむというのに、ロシアにもウクライナにも詳しくない自分がこの戦争について語れることなど何一つ無いと思っている。

 自分なりに脳内で纏めてはいるものの、それを言葉にするのは簡単ではない。私独特の思考回路が前提になっているので、そこから語ろうとすれば一つの論文並みの量になってしまうだろうし、しかも専門家でもない私が紡ぎ出す言葉など稚拙で誤謬塗れになるのが落ちだ。

 

 ただ庶民の身としては、こんな騒ぎに巻き込まれて命を落としたり、生活をぶち壊しにされたりしている人々が居るという現実に嫌気が差す。殺意が行き交ったり血が流れたりという点においては、日本に住んでいればこの出来事を対岸の火事として見なすことが出来るだろうが、それは現時点ではというだけであって、たった二桁の年数を遡ればそこに確実に存在した様相であるし、残念ながら未来永劫この国が平和で在り続けられる保証など何処にもない。

 力も正確な情報も無い蒼氓は、まるで天気の様に扱われる社会環境の変化に一喜一憂し慌てふためくだけだ。

 

 戦闘が終わっても、憎しみは続く。ロシアとウクライナの間で、この一年どれだけの怨嗟が生じたことだろう。

 インターネットで世界が繋がり、手元の端末で瞬時に情報のやりとりができる様になり、AIがすぐ隣に居てくれる時代になったのに、未だ戦争の危険性を身近に感じながら生きなければならないなんて、本当にこの世界は狂ってる。